前回(【ボードリヤール】 そろそろ消費についてガチで考えよう!)の続きになります。

 

今回は、現在の日本で消費システムがどうなっているのかについて書きます。

 

 

かなりブッ壊れてきた消費カースト

前回の記事で、物には機能記号の2つの性質がある。この内の記号を享受することを『消費』と言い、その記号はヴァーチャルなカーストを参照している。と書きました。

なんとなく図説するとこんな感じです笑

消費カースト

しかし、これは新興国のような単一の価値観が支配しているような国、国民のほとんどが共有できる大きな物語がある国で通用する理屈で、現在の日本のような多様化した価値観がある国、つまり大きな物語が消滅し、多様化した国では、この理屈は通用するのかという疑問が出てきました。

大きな物語でのカーストは単純な三角形ですが、多様化したカーストはピラミッドが大量にある状態です。

ボードリヤール

そして、記号がカーストから価値を参照しづらくなったので、カーストのパワーが弱くなっていると考えられます。

大きな物語、つまり昔の日本の価値観だと、金持ちのイメージは高級車、高級時計などでしたが、多様化した現在の金持ちのイメージはそんなことありませんし、フェラーリという記号も昔ならカーストの頂点らへんにあったんでしょうが、現在では参照するべきカーストが色々あるので、どう受け取ったらいいのかわかりません。(むしろ全身ハイブランドやフェラーリはネタというかダサい物として受け取られる気がします…)

ボードリヤール

大きな物語でのカーストでは、物の記号の価値が参照しやすかった。

しかし、多様化したカーストでは、物の記号の価値が参照しづらくなった。

よって、多様化したカーストでは、物の消費が機能しなくなってきていると考えられます。

 

 

物の代わりになるリア充度

リア充

現在の多様化したカーストで、物の消費が機能しなくなっていく代わりに、台頭してきているのがリア充度という指標だと僕は思います。

このリア充度という指標を強くしているのは、間違いなくSNSでしょう。

SNSの顕示的機能、見せびらかし機能は、現代のポトラッチ。

「BBQしました!」「今日のディナー」「〇〇交流会に行ってきました」などという言葉と一緒に写真をSNSに垂れ流す行為は、正に顕示的消費

ヤンキー宇宙にいようが、エリート宇宙にいようが、サブカル宇宙にいようが、SNSのフォロワー数はそんな差異を関係なしに価値を持ちます。

それに物の価値を示して自分のカーストの位置を上げるには、その物の記号的価値を分かる人にいちいち見せびらかせないといけません。めんどいっすよね。

SNS社会では、BBQの写真というメッチャ分かりやすい記号を、自分のフォロワーに簡単に一瞬で垂れ流せるのですから、そりゃあ物を買うよりも効率的です。

サブカル宇宙なんて元々、「俺はこの作品を知っている」みたいな記号をやり取りするゲームですよね。作品を享受するのではなく、作品の記号を消費してるにすぎないです。

最近のイベントはSNSで拡散することを前提に作られているのも多い気がしますが、こういう背景があるのではないでしょうか?

 

バーベキュー

 

ここまでの話をまとめますと、物の機能性の水準が上がりすぎて、 物の記号性で勝負する時代がやってきた。つまり多品種少量生産時代。それが更に先鋭化して、記号性だけで消費するようになってきた。そこには機能性は必要なく、したがって物そのものも必要無くなり、記号だけをやり取りする時代になってきているということです。

この記号のやり取りは、ネットというヴァーチャルな空間にめちゃくちゃ適しています

BBQ写真の記号は、友人が多い充実しているなどめっちゃ分かりやすい記号で、それをフォロワーに垂れ流すことで、多様化したカーストの中での記号ゲームに参加することになるのです。

物の記号的価値をやり取りする時代ではなく、SNSなどでの投稿が記号的価値を持ち、それをやり取りする時代になってきてるんではと思います。

記号的価値が高いものを保有している人は、相対的に地位が低くなり、リア充度が高い人は逆に地位が高くなっています。

 

 

How do you live on such a field?

物には機能記号の2つの性質がある。この内の記号を享受することを『消費』と言い、その記号はヴァーチャルなカーストを参照している。そして、今や物の機能はどーでもよくなり、記号だけをやり取りするゲームになってきていると書いてきました。

そんな世界でどうやって生きていくか選択するにあたって思いつくのが、

1.消費ゲームに参加し続け、ひたすら踊り続ける。

2.消費をひたすら否定し、ゲームに参加しない。

3.1と2の中間のどこかに身をおく。

 

果たして、ミニマリストはどういった選択をすべきなのか?

 

 

ミニマリストは機能主義

ミニマリストとはのページのミニマリストの定義で、機能主義反消費主義と書いてますが、これは物の記号を否定し、機能を受け取ることを積極的にすることであります。

つまり、物の機能を徹底的に分析し、厳選した物しか使わないということです。

なので、アウトドア用品のような徹底的に機能的な物を好みますし、機能的な物にはお金を惜しみません。

 

あぁI’m a God’s Child

この腐敗した〜 消費世界に落とされたあぁぁいえ〜

how do you live on such a field?

こんな物のために〜 生まれたんじゃなああぁい〜

 

記号を排除し、徹底的に機能を見つめる。

これがミニマリストな選択ではないのでしょうか?

 

 

終わりに

どうもボードリヤールの考えが、現代の日本に当てはめると違和感があったので、自分なりに現在の日本の消費システムがどうなっているのかについて書きました。

 

 

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  • 14 コメント

    1. 多様化したカーストの考えはニーチェ思想に通じるように感じますね。

      昔、絶対的な価値基準は神でした。神の教えに従い生きる宗教こそが幸福でしたが、信仰が失われると既存の価値基準も崩壊しニヒリズム(虚無主義)が蔓延するようになります。
      その中でニーチェは積極的にニヒリズムを受け入れ、価値自体を自ら創造的に展開していく超人思想を展開しています。

      個人的なイメージはSNSやTwitterは承認欲求を満たす道具のように感じます。承認欲求にとらわれない、確固とした価値観を持って生きたいですね。超人は大げさですが・・・。

      0
      • 物の記号でゲームするより、SNSで記号ゲームするほうが効率的で環境にもいいので、そこは否定してないんですが、このゲームにガチに参戦することが「なんだかなぁ~」って気になります。
        所詮ゲームにすぎないので、お遊び程度に楽しむものだと思いますので。

        確固とした価値観というとなんか難しい気がしますが、純粋に好きなことを全力で楽しむだけでいいような気がします。

        0
    2. ボードリヤールのいう意味での「消費」、つまりモノ自体の機能やそのものを所持したり使用することで得られるよりプリミティブな満足から離れて、外部のカーストによって付与される「価値」を自分の一部とするような消費活動は、これを現代に当てはめると、個々の島宇宙化したコミュニティの中で他者の目によってお墨付き付与される「リア充度」を高めるような顕示的活動にとって変わったという感じでしょうか。

      何かを「発信」する、「表現」するということについては、その活動を自己の一部として他者に見せるために、言わば単に承認の欲求を満たすために行われる場合が多いように思います。
      それこそ、現代の社会はみんなが同じカーストの中で、同じように階層を登ろうとするような単純さは薄れているわけですが、その一方でネット社会の台頭により、より簡便に適当なコミュニティにアクセスして、その中で個々様々な自己表現をできるようになった。

      ここで何が重要かというと、島宇宙の形成スピード、アクセススピードの革命だと思います。
      社会の中で自分はこういう特異な能力やモノや知識を所有していると自負していても、それの価値を理解しアクションを返してくれる人がいないと、本記事の文脈でいうような記号のやりとりはそもそも成り立たないわけですよね。
      それが今のネット社会では、誰もが自分の好みの記号を検索して発見できるし、発信することもできるようになった。
      特に、ネット上のやりとりは、文字通りの「電子情報」、つまりは「記号」的側面がより先鋭化されているわけで、「記号のやりとり」をいかにより簡便にするかというインフラは当然発展していく。そしてその流れの中で、「消費」活動もその記号消費性を高めまた多様化していくのは必然というわけですね。

      で、何が問題かというと、前回のコメントでも触れましたが、そこにはどうしてもある種の「パワーゲーム」が生まれるので、「疲れる」のですよね。
      自分で好みの記号ゲームの場を選択するのだから、初めから確固としたものとして存在しているカーストへの強制参加とは違うのですが、その初めの「好き」という気持ちや、ある意味原初的な感情である「興味」「関心」に突き動かされていたところからは離れていってしまう。
      楽しかったものも、なんだか楽しくなくなってくるわけです。

      「顕示」というのも、何を顕示しているかというと自分の自我の一部を顕示しているわけで、記号のやりとりは、当然「所有」と密接だと思います。
      まあ実はここが言いたいのですが、「表現」の目的というのは、あれもこれも「顕示」だなんて単純な話ではなく、もう一つ重要なものがあると思う。
      それは「共感」「共有」というやつ。
      ようは、自分の所有物を見せびらかすのではなくて、自分の感じたものを、誰か自分と同じように驚いたり、興奮したり、感心したり、感動したりしていないかと、もしそうならそれを共有したいという目的で、何かを発信したりすることがあるんじゃないかと。
      言ってしまえばこれも「承認欲求」と呼べるものだと思います。
      でも何か決定的に違う気がしているんですよね。
      結構前からこの着想を持っていたんですが、そういう、なんというのですかね、「顕示的承認欲求」と「共感的承認欲求」とでもいうんでしょうか、そこらへんの違いとか、社会的な表れみたいなことを考察した本とか読んでみたい。

      岡本太郎の記事で書きましたが、他者の目とか関係なく、ただ自分の中から湧き出すエネルギーに突き動かされて何かに没頭したりしているとき、人は幸福なんだと思うんですよね。
      そのとき幸福なんて感じていなくて、あとで振り返って「楽しかったな」なんて思ったり、何か満足感や充足感に包まれているという感じだと思いますが。
      だから、ここで言う「共感」というのは、その気持ちを誰かと共有したくて「表現」をするということですね。

      バーベキューの写真をアップロードするという表現も、それをする人の焦点がどこにあたっているかということは違いがあるように思う。
      バーベキューしてリア充である自分をより多くの人間にアピールしたい。これは言わばバーベキューしたという事実を自分を表す一つの記号として所有している。
      それに対して、とにかくバーベキューしたあの思い出が本当に充実したものであって、あのときの気持ちをあとで仲間たちと共有したくなって写真をアップロードする。

      後者の行為は、為された活動に触発されて行われる表現なわけで、「消費」のターゲットにはなり辛いように思います。
      だから、現代的な消費社会の中で生きていくひとつの在り方のヒントは、いかにそうした表現を可能にするような、自分の中のエネルギーを生み出せるようになるか、というところにあるんじゃないかと考えています。
      んじゃあ、それはどうやって?となるとまた色々と難しさがあるわけですが(笑)

      0
      • 「顕示的承認欲求」と「共感的承認欲求」についてですね。

        顕示的な場合は、自分のカーストを上げる目的があると思います。

        共感的の場合は、2つパターンがあると考え、一つは「とにかくバーベキューしたあの思い出が本当に充実したものであって、あのときの気持ちをあとで仲間たちと共有したくなって写真をアップロードする。」のように、内なるグループで共感する場合です。
        これは、閉じた中で経験を再共有するだけなので、それ以上にもそれ以下でもありません。

        2つ目は、僕がももクロを布教するように笑、外に向かって共感を求める場合です。
        この布教活動って何なんでしょうね?
        好きな漫画を布教するのは誰もが経験あると思いますが、別に自分に利はないし、理も分かりません。
        布教用に金をはたいて、布教に労力も使ったあげく、散々ディスられたりして…笑
        なんか人間のプリミティブな部分が働いていると感じます。
        岡本太郎の話で言うと、幸福の和を広げたいという欲求があると言うのでしょうか。
        一つ目の内向きの「共感的承認欲求」はそれで終わっているので、語ることに興味を見い出せませんが、2つ目の外向きの「共感的承認欲求」はホント謎です。

        この「共感的承認欲求」が現代的な消費社会の中で生きていくひとつの在り方のヒントになるのか分かりませんが、考えてみるのは面白いですね。

        0
    3. はじめまして。

      物質的なモノの消費ではなく、情報のみのやり取りであっても、それをやっている当事者の方に、記号性への盲目的なコミットメントや、地位の上下への拘りがあるように見えてしまうと、不自由というか、魅力が無いように私には感じてしまいます。今までの単一の大きなカーストの中で、モノを物差しにやっていたことを、カーストを小さく分割して、モノ以外を物差しに変えただけで、本質は変化していないというか。

      カースト内の地位意識から上手く距離を取ることができて、自分の中の感情や価値観に耳を傾けて判断できる、魅力的に見えるのはそんな人でしょうか。

      駄文で恥ずかしいのですが、頭の中のモヤモヤを整理したくなったこともあり、書かせて貰いました。今後も興味深い記事を楽しみにしています。

      0
      • はじめまして!

        大きなカーストから数多の小さなカーストになっただけで、カースト的な機能は残っていますからね。

        人間社会で生きている以上、記号のカーストから完全に逃れることはできないと思いますが、消費の仕組みを知ることで、記号の魔術から少しは目が覚めると思います。

        >カースト内の地位意識から上手く距離を取ることができて、自分の中の感情や価値観に耳を傾けて判断できる、魅力的に見えるのはそんな人でしょうか。

        これはなんとなく分かります。
        前に「素手で戦うということ」という記事でも書きましたが、記号に頼らずに生きている人は魅力ありますよね。

        0
    4. 初めての書き込み失礼致します。

      外向きの共感的承認欲求ですが、これの一つの側面として、価値のやりとりの移動方向がカースト的縦軸ではなく、関心ー無関心という横軸への移動と考えるとしっくりくるのではないでしょうか。

      はじめに引用されていたボードリヤールの記号消費のカーストは、資本に依拠した優劣としてみれます。しかし価値観が多様化して、比較的資本に依存しない価値観として、カーストが島宇宙(以降タコツボ化)していった。全部のたこつぼに作用する共通記号がないので、各々が所属するたこつぼでカースト作るべくしてやってるのが例えばSNSだったりするよねというのが今までの話の大きな流れだと理解しています。

      その上で、たこつぼにおける「共感的承認欲求」に仲間に向けた内向きのものと、外向きがある、というわけですが、この外向きの「共感的承認欲求」は、無数のたこつぼ間における貿易/または拡大戦争の武器なんだと思います。

      こちらのたこつぼにいない人といる人の間の差は、ある記号に対する関心さの程度です。そして新しく共感を得ることは、こちらのたこつびにいないひとを引っ張ることになります。それはやり方によって勧誘でもあり接待でもあり侵略でもありえます。

      なので、このいわばたこつぼ群雄割拠に、たこつぼ内部としてどういうスタンスでいるか=内向きの承認欲求、他のたこつぼにどう接するか=外向きの共感的承認欲求と捉えてみました。ちなみにどちらも放棄すると「孤高」になりるので、とりあえず簡単な意味は与えられたかと思います。

      ●ミニマリストはどう接するか?
      孤高ではないと仮定すると、1/3くらいが消費から降り(例えばBライフの方々。ただ最近Bライフはそれ自体でたこつぼの魅力や強度がある印象)、残る大部分が中間地点、たまーに先鋭的な強い外向きの共感的承認欲求(要するに価値の押し付け)をしていくのではないでしょうか。

      ●目的と戦略の先鋭化
      これはどのたこつぼも同じだと思いますが、他にミニマリスト固有の特異さがあるとすれば、それは「やりとりしたい情報以外の意味を無くし、齟齬を減らす」ことに注力していくのではないかなあと僕は思います。目的と戦略の徹底化、そして具体的な方法における別の意味の排除です。ようするに無駄がない。

      そうすると、ミニマリストは言語、音、物質、歴史、臭い、そうした一つ一つに非常に繊細になっていくことになるのではないかなあ。当初の美術的な意味におけるミニマリストを生活で実践していくことになりそうかなあと。それも極めて自然に。例えば「白」を伝えたいとき、それを過不足無く伝えるということ。これはとても難しい。だけど挑戦していく人たちのことをミニマリストと呼ぶのかなあと僕は思います。

      初カキコで長々すみません。
      僕はミニマリストではないのですが、ミニマリストが発する非=常識さがとても魅力的に感じ、いつも楽しく記事を読まさせて頂いてます。それでは失礼致します。

      0
      • コメントありがとうございます!
        サイトも拝見させていただきました。

        >この外向きの「共感的承認欲求」は、無数のたこつぼ間における貿易/または拡大戦争の武器なんだと思います。

        これ、めっちゃしっくりくる説明です。
        たこつぼ間の戦争ってのは、ほんとそう感じます。
        漫画やアイドルなどにおいても、好きな漫画を勧めあう宗教戦争のような押し付け合いがありますし、ネットは同じコミュニティで集まるたこつぼを強化する機能があります。

        このような中で、ミニマリストたこつぼはどう展開していくのかという問題ですよね。
        ミニマリストたこつぼが広くなろうが、狭くなろうが、さほど興味はありませんが、極めて自然に、過不足なく伝えることは実践していきたいと思います。

        >例えば「白」を伝えたいとき、それを過不足無く伝えるということ。これはとても難しい。だけど挑戦していく人たちのことをミニマリストと呼ぶのかなあと僕は思います。

        ほんとにコレですよね。
        伝達情報を削ぎ落とすことの難しさはいつも感じてます。
        また漫画の話になりますが、上手い漫画家は少ない線で記号を書くので、スッキリして読みやすいですもんね。

        初心を思い起こさせられました。
        面白いコメントありがとうございました。
        また、ぜひ書き込んでくださいね!

        0
    5. 肘さん、こんにちは。

      ぼくは東京住まいのミニマリストで、ベルセルクにバガボンドに、セスタスなど好きな漫画被りすぎて勝手に親近感沸いてます、どりと申します。

      とてもとても勉強になりました。ブログ運営は僕もしていて、頭で考えたことを言葉にするのが難しく感じていましたが、すごくわかりやすく解説され、理解が深まりました。こちらの記事をぜひ、引用させていただきたいのですがよろしいでしょうか?

      東京に来られるときはおっしゃってください!一度語り合いあいです!

      0
      • こんにちは。

        ぜひ、自由に引用してください!

        漫画の趣味が合うということは、魂から語れるってことなんで、ぜひ語り合いましょう!逆にどりさんが関西に来る機会があれば、いつでも言ってください。飲みましょう。いいゲームバー見つけたんで行きましょう。

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