遊びが文脈を乗っ取るとき、それは当の〔もともとあった〕事態を破壊する。
この破壊は、笑いを目的とする場合もあれば、楽しさや一時的な快を目的とする場合もある。
とはいえ、ほかのあらゆる一時的な快と同じく、遊びもまた、わたしたちの慣習や思い込み、偏見や反感を暴露してかき乱すことがある。
わたしたちは、遊び心を発揮して正常な事態を攪乱させる。それができるからこそ、わたしたちは、ある文脈を使って──そしてその内部で──遊ぼうという意図のもとにそれを流用する際に、たんに楽しむ以上のことができるのである。そして同時にそれは、わたしたちが置かれている文脈の隠れた仕組みを暴露することでもある。
午前八時五十七分。
世界は、三ミリ単位で正しかった。
銀色のベルトコンベアが低く唸り、白い弁当箱を運んでくる。
ひとつ。
また、ひとつ。
まるで中身を失った棺が、埋葬の順番を待っているようだった。
俺の仕事は、その中央に黄色い花を載せることだ。
正確には食用菊という。
だが、それでは物語にならない。
名前は物を分類するためにあるが、物語は分類から逃げるためにある。
だから、これはたんぽぽだ。
少なくとも、俺がそう呼んでいるあいだは。
名前を失ったものは、用途だけになる。
用途だけになったものは、壊れるまで使われる。
人間も、たぶん例外ではない。
第一節 正しい世界
一つ目の弁当に、たんぽぽを載せる。
次の弁当にも載せる。
その次にも載せる。
たんぽぽ。
たんぽぽ。
たんぽぽ。
同じ黄色が、同じ速度で、同じ場所へ収まっていく。
時間だけが流れているのか。
それとも、流れている弁当箱のほうが時間なのか。
長く見ていると、もう分からなくなる。
「少し右です」
背後から声がした。
品質管理担当者だった。
俺は指先でたんぽぽを三ミリ左へ戻した。
「そこです」
そこ、らしい。
どうやら世界には正しい位置がある。
人間には分からなくても、規格書には分かる。
俺は朝から、その絶対的な真理へ黄色い花を捧げ続けていた。
この仕事にはラスボスがいない。
物語もない。
隠しアイテムもない。
ベルトコンベアが二倍速になることはあるが、イベントではなく人手不足である。
攻略法は一つだけ。
正しい場所に。
正しい向きで。
正しい数だけ置く。
一か月続ければ給料がもらえる。
ゲームでいうログインボーナスだ。
ただし途中でログインをやめると、やがて生活できなくなる。
壁はない。
扉も見える。
それでも出られない。
——壁のない牢獄。
設計者は、自由を奪うために檻を作る必要さえなかった。
ある日、俺はたんぽぽを二つ載せてみたいと思った。
理由はない。
理由がないからこそ、それは純粋だった。
空白がある。
花がある。
なら、もう一つ置いてみたい。
木の枝を拾った子どもが、それを剣と呼ぶように。
世界が与えた用途とは別の名前を、勝手につけてみたい。
だが、置かなかった。
大人だからだ。
大人とは、二つ置きたいという衝動を胸の奥で殺し、その死体に「常識」という名札をつけられる生き物である。
そうして殺したものの数だけ、人は正しくなる。
第二節 遊びという侵入者
その夜、帰りの電車でミゲル・シカールの『プレイ・マターズ』を読んだ。
遊びとは何か。
そんなことを、真面目に考える本だった。
遊びは文脈に依存する。
カーニバル的である。
流用的である。
攪乱的である。
自己目的的である。
創造的である。
個人的である。
多い。
労働を終えた頭には、三つくらいで十分だった。
だが、その中に一つだけ、指に刺さる言葉があった。
遊びは流用的である。
流用。
それは、物に刻まれた本来の用途を無視し、別の意味を与えることだという。
木の枝を剣にする。
公園の白線の外側を溶岩にする。
会社のパソコンでソリティアをする。
最後のものは勤務態度不良だが、反逆の構造としては同じである。
シカールは書いていた。
「遊びはそれが生じる文脈を乗っ取って成り立つものであり、そうした文脈によってあらかじめ成り行きが完全に決められることはありえない」
遊びは、文脈を乗っ取る。
穏やかな言葉ではない。
遊びとは、許可された余暇ではなかった。
世界が用意した意味へ侵入し、その内部から用途を書き換える行為だった。
子どもが鬼ごっこをしているだけなのに、構造だけ見れば武装蜂起である。
電車の窓に、疲れた顔が映っていた。
朝から正しい場所へ、正しいたんぽぽを置き続けた人間の顔。
右に置けば直される。
左に置けば直される。
二つ置けば、かなり直される。
花びらでピカチュウを作れば、たぶん別室へ連れていかれる。
流用した瞬間、品質不良になる。
そこで、ようやく気づいた。
あの仕事がつまらないのは、同じ作業を繰り返すからではない。
俺が、あの世界へ侵入できないからだ。
ルールはある。
操作もできる。
だが、自分の意味だけは持ち込めない。
それは遊べないゲームではない。
プレイヤーを必要としないゲームだった。
必要なのは、決められた入力を繰り返す二本の腕だけだ。
名前も、記憶も、美学も、処理を遅らせる不具合にすぎない。
人格のほうがバグだった。
第三節 遅くなるための機械
家へ帰り、棚の奥から古いミニ四駆を取り出した。
子どものころに使っていた車だった。
埃をかぶった車体は、遊ぶことを知っていたころの自分の遺骨に見えた。
ボディには意味のない穴が開いている。
左右には違うタイヤがついている。
軽くするために削りすぎ、速くするためにバランスを壊し、最後には買ったときより遅くなった。
金を払って弱くなっている。
自業自得。
因果応報。
色即是空。
それでも、あれは面白かった。
モーターを変える。
タイヤを変える。
重心を調整する。
壊す。
直す。
また壊す。
新品の部品をつけ、昨日より遅くなった理由を夜まで考える。
速さが快楽だったのではない。
失敗に、自分だけの因果を見つけることが面白かったのだ。
メーカーは速く走るための車を売っていた。
だが、俺たちはそれを速く走らせる必要さえなかった。
見た目だけを追求してもいい。
無意味に巨大な部品をつけてもいい。
公式コースを無視し、家の廊下を世界大会の会場にしてもいい。
ミニ四駆は、こちらが勝手に目的を作ることを拒まなかった。
シカールは、こうも書いていた。
「遊ぶことは、そのゲームのルールを受け入れると同時に、そのルールの範囲内で、自分自身のニーズや個性にしたがって行為することである」
ルールを壊す必要はない。
従いながら、裏切ればいい。
与えられた境界の内側に、自分だけの王国を作ればいい。
たんぽぽとミニ四駆の違いは、手を動かす回数ではなかった。
報酬の有無でもなかった。
自分の美学を、異物として差し込めるかどうかだった。
第四節 バグは生きている
昔の俺は、クソゲーとはバグの多いゲームだと思っていた。
壁を抜ける。
敵が止まる。
アイテムが無限に増える。
突然死ぬ。
セーブデータも死ぬ。
ゲーム側に明確な殺意がある。
だが、壊れたゲームほど長く遊ばれることがある。
プレイヤーが壁抜けを競技にする。
変な挙動を攻略法にする。
製作者の失敗を、記録と笑いと伝説に変える。
欠陥は用途を失った機能だ。
だからこそ、別の用途を与えられる。
ゲームは死んでいる。
だが、その死骸を使って、遊びは生き延びる。
逆に、何一つ壊れていないゲームが、ひどく空虚なこともある。
映像は美しい。
目的地には矢印が出る。
敵には正しい倒し方があり、扉には正しい鍵があり、物語には正しい順序がある。
矢印どおりに歩く。
指定された敵を倒す。
指定されたボタンを押す。
ムービーを見る。
また、矢印どおりに歩く。
俺は勇者ではない。
指示書を神託として実行する、業務委託のおっさんである。
攻略本を原典とし、開発者の想定を一字一句なぞる。
そこにあるのは冒険ではない。
完成された運命の再生だ。
だから人は、勝手に縛りを始める。
レベルを上げない。
回復しない。
初期装備しか使わない。
敵を一匹も倒さない。
目隠しをする。
足で操作する。
なぜ、そこまでする。
普通に遊べ。
——だが、普通に遊ぶだけでは、自分がそこにいる証明にならない。
強い剣を捨て、木の棒でラスボスへ向かう。
効率を捨てる。
正解を捨てる。
用意された勝利ではなく、自分で選んだ敗北の可能性を抱えて進む。
それはもう客ではない。
求道者だ。
縛りプレイは不自由に見える。
だが実際には、不自由を自分で選ぶ自由である。
誰かに閉じ込められた檻は牢獄だが、自分で引いた境界線は遊び場になる。
同じ制限でも、誰が意味を与えたかで世界は反転する。
第五節 善意の怪物
翌週、職場で小さな奇跡が起きた。
隣の作業台の人が、道具の置き場所を変えた。
手を伸ばす距離が短くなり、作業が少しだけ速くなった。
誰に命令されたわけでもない。
昨日の自分と勝手に競争し、機械には同僚にしか分からない名前をつけていた。
仕事の中へ、自分だけの意味を持ち込んでいた。
ほんの数センチの配置変更。
それでも、その作業台だけは誰かの世界になっていた。
仕事が、わずかに遊びへ近づいていた。
ところが、会社がそれを発見した。
「社員が楽しそうに工夫している」
会議室で誰かが言ったらしい。
「制度化しよう」
悪意ではなかった。
だからこそ、止められなかった。
悪意なら拒絶できる。
敵の顔をしているものは、まだ優しい。
本当に逃げられないものは、こちらの幸福を願いながら近づいてくる。
善意は正しい顔で扉を開け、逃げ道から先に塞いでいく。
翌月、改善提案制度が始まった。
提案一件につきポイントがついた。
廊下の壁には部署別ランキングが貼り出された。
下位の部署だけが、誰も見ていないふりをした。
月間表彰が始まった。
改善報告書は提出必須になった。
サボテンに水をやりすぎれば腐るように、遊びも意味を与えすぎれば窒息する。
昨日まで指先に宿っていた小さな工夫は、翌朝には「改善活動」という名を与えられていた。
名もない遊びは名札をつけられ、番号を振られ、号令とともに整列した。
自由だったものが管理されるのではない。
管理された瞬間、自由だったという過去まで書き換えられる。
そして俺たちは、誰のものでもない同じ労働唄を、ベルトコンベアの唸りに合わせて歌うことになった。
遊び、死亡。
死因は制度化。
自分で作った遊び方が、会社の正しいルールとして回収されていく。
翌月には目標件数が設定され、俺は遊びだった改善提案を毎月三件提出させられることになった。
流用は、正解になった瞬間に流用ではなくなる。
会社は仕事を遊びへ変えようとして、遊びを仕事へ戻した。
何もないところから義務を生み出す。
見事な錬金術だった。
最終節 三ミリの境界
次の朝。
午前八時五十七分。
銀色の機械が目を覚ました。
ベルトコンベアが動き始める。
白い弁当箱が一列になって流れてくる。
昨日と同じ朝。
昨日と同じ機械。
昨日と同じ俺。
俺は正しい場所にたんぽぽを載せた。
次も正しい場所。
その次も正しい場所。
本の一節を思い出した。
「人間が持つ能力のうち、もっとも興味深いもののひとつは、目に入る物をほとんど何でもおもちゃにしてしまえるという能力である」
人間は何でもおもちゃにする。
木の枝を剣にする。
バグを攻略法にする。
ゲームを競技にする。
仕事を、自分だけの記録挑戦にする。
世界に与えられた意味を、そのまま受け取らない。
その不服従を、遊びと呼ぶ。
俺は指先で、たんぽぽをつまんだ。
いつもより、ほんの少しだけ右に置いた。
三ミリ。
規格にとっては誤差。
俺にとっては境界線だった。
その三ミリの内側に、誰にも見えない国が生まれた。
国民は俺一人。
法律も一つ。
——たんぽぽは、少し右に置く。
それだけの、ひどく小さな王国だった。
だが確かに、そこだけは俺が決めた世界だった。
「少し左です」
背後から声がした。
品質管理担当者。
世界の修正力。
俺はたんぽぽを三ミリ左へ戻した。
王国は滅びた。
建国から、わずか十秒だった。
歴史書に残るには短すぎる。
存在しなかったことにはならない——そう思いたかった。
だが、この工場に記録されるのは完成品だけだ。
迷った指も、ずれた三ミリも、十秒だけ存在した王国も、修正された時点で最初からなかったことになる。
正しさとは、間違いを直す力ではない。
間違いが存在したという過去まで消す力だ。
ベルトコンベアは何も知らず、次の弁当箱を運んでくる。
俺はまた、正しい場所に、正しい向きで、正しいたんぽぽを載せる。
自分のやり方は必要ない。
必要とされないものは、やがて自分から消えていく。
黄色い花だけが、時間の死骸のように流れていく。
その列を見ながら、俺はようやく理解した。
クソゲーとは、遊べないゲームではない。
敗北できないゲームでもない。
それは、自分の意味を持ち込めない世界。
自分の美学を差し込む隙間もなく、最初から最後まで正しさだけで満たされた世界。
正しさだけで作られた世界には、バグさえ生きられない。
だから、救いも生まれない。
俺は次のたんぽぽをつまむ。
正しい場所へ置く。
もう指は、右へ行こうとしなかった。
反抗を諦めたのではない。
反抗したかったことを、思い出せなくなったのだ。
午前八時五十八分。
今日も世界は、三ミリ単位で正しかった。
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