最近、ボードリヤールの『消費社会の神話と構造 』を読んでいます。
『消費』について、とことん追求している本です。
難しくて、なかなか進まないのですが、世界観を変えさせられるくらいのインパクトがあり、非常に面白いです。
このブログの最重要テーマでもある消費。
今回は、そんな『消費』について、皆さんと考えていきたいと思います。
消費はヴァーチャルなカースト
物には2つの側面があります。
機能的な面と記号的な面です。
車で例えると、性能や移動する能力が機能的な面。
レクサスやフェラーリなどの車種ブランドという記号的な面。
このうちの記号的な面を享受することを『消費』といいます。
元々、この消費は貴族階級がしていたことですが、現在の社会では、労働者階級である我々も消費を行うようになっています。
つまり、物の機能を享受するだけでなく、物の記号を享受するという『消費』をするようになったということです。
バナメイエビを芝海老として偽装していた事件も、結局リークによって明らかにされた事件でした。
これは消費者が芝海老の味という機能でなく、芝海老という記号を消費していたにすぎないという、正に消費社会を象徴するものだったと思います。
そして、消費はヴァーチャルなカーストと結びついています。
レクサスを保有することのできるカーストに所属するために、他のカーストと区別する記号として消費を行います。
昔で言うと、貴族階級が無駄遣い的な消費をして、優位性を示すようなことです。
消費社会である現在では、この消費とヴァーチャルなカーストが結びついた消費ゲームに生まれた時から強制参加させられているのです。
自発的な欲求はない
「選択は偶然になされるのではなくて社会的にコントロールされており、その内部で選択が行われる文化モデルを反映している。財は価値の体系との関連において何かしらの意味を持たなくてはならない。」(ジェルヴァジ)
「経済の目的は個人のために生産を最大にすることではなく、社会の価値体系との関連において生産を最大にすることだ。」(パーソンズ)
つまり、個人には自発的な欲求や合理的な選択などはなく、あるカーストの価値に順応することしかないということです。(もちろん生理的な欲求はありますが、ここでは消費においての欲求です。)
おいおい、じゃあこのヴァーチャルなカーストは一体どうやって形成されるんだよと言うと、広告によって操作されています。
マスメディアと消費社会が同じ時期に生まれたのは偶然でなく、必然だったというわけです。
そもそも、こんなにも物が安価で大量にあふれている時代ですから、生産を増やしても利益は出ません。
なので、マーケティングにより消費者をコントロールするしか選択肢がないのです。
昔(消費社会になる前)だと、個人の需要に合わせて、企業も物を供給していたのでしょうが、今の消費社会では、イニシアティブは企業にあります。
企業が広告などにより、あるスタイルを作り出して、ヴァーチャルなカーストにそれを追加します。
車のCMとか正にそれですよね。
ワゴン車はアウトドアや家族で使うスタイル、レクサスは都市でハイクラスな生活スタイルなどといった記号をカーストに追加しています。
つまり、欲求とはけっして特定の物への自発的な欲求でなくて、カーストにおいての差異への欲求であるということです。
個人の欲求が最初にあるわけでなく、ヴァーチャルカーストが最初にあり、これが個人を順応させるという順序。
消費とは記号をやり取りする言語ゲームにすぎないのです。
カーストは常に再生産される
自分で選んだつもりでも、それこそがカーストに服従しているということになります。
なぜなら物の記号的な面を享受する消費は、ヴァーチャルなカーストに分類され、分類されたカーストへのポイントが入り、カーストが更新されるだけだからです。
部屋をシンプルにしようと、無印良品でテーブルを買ったら、その記号は『シンプルライフカースト』などのヴァーチャルなカーストに分類され、1つ記号が増えたことで、シンプルライフカーストの位置も少し変動するといった具合です。
個人として何かを選択したつもりでも、記号を消費するという消費社会に生きている以上、ヴァーチャルなカーストに支配された消費ゲームに参加させられているのです。
消費社会でない国から消費社会に投げ込まれた海外労働者ですらも、無頓着な性格が徐々に消費社会に適合した消費人間へと教育され、消費ゲームに強制参加させられます。
このカーストの更新は無限に続くので、消費の本質である限度がないという性格がわかると思います。
また、消費社会での物は、他の物との関係において相対化されるので、絶対的な物は存在しません。
よって、永久に相対的に物が競争し合い、永久に差異の消費ゲームは続いていくのです。
このカーストに逆らうとペナルティを受けることになります。
豚に真珠という言葉がありますが、カーストの下位に属する人が、カースト上位の物を消費することは、「おいおい、なんなんだよアイツ」という豚に真珠ペナルティを受けることになります。
上位カーストのイベントでのドレスコードや、ハイブランドの店で黒人が追い出されたりするのは 、カーストの保護機能なのです。
機能としての物の前では万人が平等ですが、記号としての物の前では全く平等ではないのです。
終わりに
今思えば、國分功一郎さん(参照:『暇と退屈の倫理学』の感想 その②)はボードリヤールから相当な影響を受けているなぁと感じました。
とりあえず消費について簡単にまとめてみましたが、 現在のような多様化した価値体系が存在する世の中では、単純な三角カーストでは説明できないと思います。
そのへんをもうちょっと考えていきたいと思っているんですが、皆さんどう思われますか?
次回は、こんな絶望的にヴァーチャルな消費社会において、私達はいかに生きていくかについて書きたいと思います。
参考文献
- 作者: ジャンボードリヤール,Jean Baudrillard,今村仁司,塚原史
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1995/02
- メディア: 単行本
ボードリヤールという生きかた NTT出版ライブラリーレゾナント010
- 作者: 塚原史
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2005/04
- メディア: 単行本
こんにちは!
masaです。
物を機能と記号の視点から見るというのが、すごく腑に落ちました。
個人的には、物を見る際に、機能と記号の割合が男女によって異なるのでは?と感じました。
男性 機能:記号 = 3:7
女性 機能:記号 = 1:9
みたいな感覚です。
女性の方が、記号を重要視しているのは、女性が欲しがる物(ブランドのバックや衣類、ジュエリー)などは、値段による機能差がかなり少ないです。
エコバックだろうが、エルメスのバーキンだろうが、収納できる容量に大差ありません。
一方、男性が、好きになる物(記事の例だと、自動車)は、ブランドイメージもありますが、値段による機能差は大きいです。
スズキの軽自動車と、フェラーリだとエンジン性能は桁違いです。
(公道で、フェラーリのエンジンを100%発揮できるか、はそもそも無理ですが)
女性の方が、記号の側面を重要視するというのが、端的に言うと、「より見栄を張りたがる」ということだと思います。
自分は、『闇金ウシジマ君』という漫画を好きで読んでいるのですが、その中にも、ブランド商品のショッピング中毒で闇金に溺れる女性が描かれています。
主人公のセリフでも、「アホな女ほど見栄を張りたがる」とあるので、女性が見栄を張るために、物を記号として見るというのは、大筋合ってると思います。
闇金ウシジマ君を、お読みになったことが無いなら、ご一読をオススメします。
反面教師の意味で、道徳の教科書にしていい、と自分は思ってるくらいです。
ももクロのようなアイドルを、商品的視点から見ると
機能(外見、歌唱力、身体能力など)を
記号(ライブのトーク、メンバーの性格、仲の良さ)が、圧倒的に上回っているように思えます。
アイドルでいう記号的側面とは、消費の際の見栄とは関係無く
感情に訴えかける要素であると思います。
それぞれ機能=論理、記号=感情 にリンクしていると思いますので。
長文失礼しました。
今後も、更新、楽しみにしてます!
masaさん、こんにちは!
女性の方が記号を重視している傾向があるというのは、なんとなくわかります。
昔の価値観だと、どこに嫁いだとか、彼氏は何々大学とかが、その女性のカーストの位置を決めていたような気がします。
カーストを決めるのは女性であり、男はそれに当てはめられ、カーストゲームに参加しているとも感じます。
果たして、今の若い女性もそうなのかはわかりませんが、カーストに縛られるのはシンドイ生き方ですよね。
ウシジマ君読んでますよ!
記事にしたこともありますし、反面教師漫画として、道徳の授業でやらせるべきだと思います笑
>機能=論理、記号=感情
つまり、これですよね。
記号は感情で受け取るものなので、論理的な価値付けができない。
よって、ゴッホの絵や、骨董品があんなにも高額ですし、単なるイワシの頭でも、記号的価値が付けば、どこまでも価格が上がるわけですよね。
うーん今回の記事は何かいまいちよく理解できなかったです
備忘録として書いてたのだったらごめんなさい
僕の力不足で伝わらなくてすいません。
もし宜しければ、どの部分が分かり難かったか教えていただけたら幸いです。
>物には2つの側面があります。
>機能的な面と記号的な面です。
食べ物はどちらにも入らないのでは。
たとえばスーパーの野菜に機能的な面も記号的な面もない。
だけど消費はしてますよね?
スーパーの野菜で言うと、その野菜の新鮮さ、味、栄養素などが機能的な面で、○○産などが記号的な部分だと思います。
確かに日常で使うスーパーなんで、記号的な商品はなかなかないですよね。
ちなみにボードリヤールの言う消費とは、記号的な部分を享受することを言います。
面白い考え方だと、思いました。同一の機能性に対して、他者から記号的ヴァーチャルカーストが付与されているとするならかなり考えさせられますね。
ただ、高いものに関しては機能性に優れているからこそ、記号的な意味において価値の高いものもあるようにも感じます。
ただ、その機能性というものは曲者で、なかなか審美眼を磨かなければ素人に判別が難しいのもまた事実です。そういう意味においては記号的なカーストは、素人が一定の水準を判断する材料となり、それに左右されてしまっているがゆえ、他者の描くカーストに服従してしまうのでしょうね。
他者の価値観に左右されず、自らの価値基準において審美眼を磨けるようにいつかなりたいものです。
非常に面白い記事でした。今後も楽しみにしております。
>ただ、その機能性というものは曲者で、なかなか審美眼を磨かなければ素人に判別が難しいのもまた事実です。
ここなんですよね。
消費者ネットワークが強化されれば、この点は克服できると思います。
現に昔と違って、イメージではく、Amazonや価格ドットコムなどのレビューを見て買いますよね。
ただこれにはステマが混じっている可能性もあるんで、信頼できるレビュワーを見つけるのが大事だと思います。
あと、ヘッドホンは、受け取る側の能力も必要となるので難しいですよね。
フラシーボ効果で、なんとなく高音質に聴こえたりだったりで。
わたしはいまほとんど消費をせず循環で暮らしているような状態です。
Aさんに野菜をもらったら服をくれたBさんに分ける。
Bさんが受け取った野菜でお惣菜を作ってまた持ってきてくれる。
物がぐるぐる巡って、つまりは他人の善意で、そこそこ生活が支えられています。
ありがたいことですが、機能だけだと虚しいのも事実です。
情報を遮断して田舎世界だけで生きていくならこれはこれでありだと思いますが、実際は記号度の高い人への気後れがすごいです。
シンプルライフと銘打ったブログなどを例にとっても、カーストの差を感じます。
「手持ちの食器は全処分して、このメーカーの白に統一しました!」的なのには気後れを感じ、「実家を完璧に片付けました!」みたいなのは安心できます。
機能性を高めただけより、記号を手に入れたほうが、わかりやすく上流感が出ますもんね。
なぜか記事を読みながら思い出したのですが、
男性が女性の何を基準に食事代をおごるかおごらないかを決めているのかという話で、好意の有無はあまり関係なく、女性からヘアメイクやファッションにお金かけてますオーラを感じ取ると男性はおごらざるを得ない気持ちになるのだそうです。
ひとは優越感のため、あるいは劣等感の払拭のために消費するのですかね。
難しすぎてぐだぐだコメント。
貴重な意見ありがとうございます。
ボードリヤールは、人や物が密集している都会では、カーストが強力に働くと言ってます。
しかし、田舎の環境でも、テレビや本、ネットで情報はバンバン入って来るんで、カーストは今や、都会、田舎関係なく強力に働くものだと思います。
現代では場所関係なく消費社会に巻き込まれるという貴重な意見が聞けて良かったです。
「機能だけじゃ虚しい」って意見が、この消費問題の本質だと考えてます。
確かに、どんなに消費社会をdisっても、消費社会で生きるしかないですし、簡単に「見栄なんて張らなくて、機能だけでいいじゃん」と割り切れるものでもないかもしれません。
消費とどう向き合うか、それを真剣に考えるキッカケをと、今回の記事を書きました。
それぞれの方が、何かしらの答えを見つけれたらなあと思っています。
駄文で御免なさい。
『日本的消費カーストはこうして創られる?』
電通戦略?10訓より
1もっと使わせろ
2捨てさせろ
3ムダ使いさせろ
4季節を忘れさせろ
5贈り物をさせろ
6組み合わせで買わせろ
7きっかけを投じろ
8流行遅れにさせろ
9気安く買わせろ
10混乱をつくり出せ
おそらくコンセプトは、いかに大衆を浪費に煽動させるか。
対して
ミニマリストの「モノを持たない」身の丈に合致した暮らし。
思考停止の右に倣えも良きことかな。
自分の感性を信じて、他者の真似事を忌避し、オリジナルを求めるのも良きことかな。
おそらく人は、自己を静かに慮ることでしか、自己を完成へと導けない。
『モノ語り』(ブランドなどで自己を補完し表現すること)は必ずしも醜態ではないが、最終的に自己を完成させるには、精神文化の修練が欠かせない。
消費は、自身の執着を制御しつつも、時と場合に応じて使い分けるのがよろしい、と私は学んだ。
地揺れの後に、あえて豪邸を建設した豪商は何を思っていたのか。
末筆ながら、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。
消費は、コンプレックスを解消する手段でもあると僕は思います。
つまり、仰るとおり、精神的な強さがあれば、精神文化が熟成されていれば、必然的に消費をする必要はなくなります。
広告会社の煽りは強力です。
ターゲットを見つけては、そこを徹底的に狙いにいきます。
「女子会」も、まだ飲みの需要が見込める女性をターゲッティングし、見事に女子飲みの文化は定着したと思います。
女子会は電通ではなく、リクルートだった気がしますが、ほんとあの手この手でよくやってるなと感心するくらいです。
今や、スマホからもバンバン広告が垂れ流される時代ですし、それに翻弄されないためにも、精神文化の修練は欠かせないと思います。
車のエンジンがすごい!はレーサーにとっては機能でも普通の人にとっては記号じゃないですかね
日本の公道走るには、機能的な部分で言えば、軽自動車でも事足りますからね。
使いこなせないのに、スペックを求めるのは、機能的ではなく記号的な消費だと感じます。
丁度2、3ヶ月前に購入して、ちょっと開いて、そのままデスクの上に積まれてます(笑)
かつての、例えばバブル時代の日本において、ビラミッド型のカーストが単純に収入の差異を消費で顕示するようなものであったとすれば、現在は事情がかなり違ってきてると思いますね。
いわば、縦のカーストだけでなく、横にも広がる、様々なセクションもある。
いや、それでも足りないほど、消費に意味を与える構造はわけのわからないことになっているかもしれない。
もう、カーストなんてシンプルな言い方では到底理解できない様相じゃないかと。
かつてのカーストであれば、消費に意味を与える外部の構造はある程度人々に共有されていたのだと思います。
でも現在は、その外部の構造そのものがバラバラになっているんじゃないかということまで消費論を考えなくてはいけない。
つまり、消費をするにあたって、その意味を付与する参照先(ヴァーチャルな構造)さえも細分化して、力を弱くしているんじゃないかと。
「島宇宙」なんて言葉も、社会学の評論で使われていたと思います。
何を目的に、何のために生きればいいのかわからない。
そういう嘆きの一つの原因は、そもそも消費を支えていたカースト自体がよくわからないものになってしまったことではないでしょうかね。
「ほしいものが、ほしいわ。(糸井重里)」なんて。
でもこれはある意味チャンスだと、私なんかは思ってしまいますが。
消費社会の中で、カーストによって否応なしに動機づけられ、そのことに気付かされることもなく従わされていた人間が、少なくともなんでこんな生きる意味やら目的やらで悩んでるんだろうという、自省の入り口までは立たされることになる。
でもしんどいですけどね。そうやって悩んだ結果、夏目漱石ばりに「自己本位」に目覚められるかはわからない。
誰もが霧を抜けて、ああこれが私がゆくべき道か、とはいかないわけです。
もしかしたら失敗して、絶望の先に遅かれ早かれ死んでしまうかもしれない。
しかしそれでも、そのリスクやしんどさを背負っても、葛藤して生きていくのがいいんじゃないかと思ってしまうんですが。
次回以降、んじゃあ具体的にそこらへんどうすりゃいいんじゃ!というところに議論が言及してくれることを、密かに期待しております(笑)
>丁度2、3ヶ月前に購入して、ちょっと開いて、そのままデスクの上に積まれてます(笑)
やっぱ価値が似てるんでしょうね!
同時期に同じ本を読むなんて笑
>もう、カーストなんてシンプルな言い方では到底理解できない様相じゃないかと。
最近インド映画を観たんですが、いい大学に入ってエンジニアになるのが正しいルートとなっているようです。
つまりエンジニアになるということが頂点にあるカーストが強力で、それ以外の生き方には価値がないとみなされている社会ということです。
新興国だと、こういった単純な価値観と、それに向けての全国民の競争がよくあることだと思います。
しかし、日本はそんな時代は過ぎ去って、言われる通り『島宇宙化』している状態です。
そんな状態だと消費カーストの実体がホントによくわかりません。
フェラーリ乗ればモテるって価値観も、今やギャグに近い状態ですし、単純でわかりやすいカーストは、もはや日本にはないと思います。
hajiさんが仰られるとおり、単純なカーストから解放された人間は、荒野に放置されている状態です。
若者の○○離れとは、そういった状態を表してると思います。
ここからはどうなるかわかりませんが、物ではなく、『リア充度』が新たなカーストの指標になっていく気がします。
今の日本の消費カーストの実体について考えていきたいと思っているんで、何か思いついたら是非是非書き込んで下さい。
「リア充度」と聞いてぱっと個人的に思い浮かぶのは、
以前読んだ「〈非行少年〉の消滅」という、とある社会学者の書いた本。
これは何をやっている研究かというと、少年犯罪にまつわる統計データの変化と、今の若者たちの「パーソナリティ」や行動動機の相関、因果関係を論じようとしたものだったと思います。
大雑把に要点をまとめてしまえば、参照すべき大きな物語やカーストを失ったが故に、若者たちは「個性」というものを求めたけれど、それがなんだかわからない。自分が何者で、どう振る舞い、何を目指したら良いのかわからない不安から、彼らはその場その場の関係性にいかに同調し、孤立しないようにするかということが、関心の大部分になっている。という感じ。
この変化というものは、非行を行う集団、そしてそこに居る個人の犯罪の質も大きく変えているよという点が、ユニークなわけです。
じゃあより「リア充度」の高い存在は何者かというと、そうした流動的な共同体の中で、その集団のノリを引っ張っていけるような振る舞いが上手い、またはそれに乗っかっていく能力の高い人間ということになる。
この話を「消費」に関連づけるとすると、そうした集団においてある種のカリスマ(というと大げさだけれど)になれるような演出をする「アイテム」や「体験」のためにお金を使うということなんですかね。
そして、それに引きづられるように、その下位に属する者たちも、似たような消費をすることが、「ハブ」られないために必要なわけです。「ダサ」いキャラになってはいけない。
ただ、このカリスマ(笑)もまた、より大きな外部に参照先を持っているでしょう。ようは、「流行」に敏いということ。いち早く「イケ」てる(もはや太古の言葉?)記号をキャッチして、それを自分のパーソナリティに取り込む。ただ、この参照先もまたかなり複雑で、多様化(島宇宙化)していると思いますけどね。
だから、本当に自信たっぷりで、「リア充」であり続けられる奴っていうのも、減ってるんじゃないかという気はする。
そもそも、集団が流動的だという前提なので、私が言っている、この文脈での「リア充」としての安定したパーソナリティを維持するのも、やはり大変だろうなぁという気がする。
肘さんの考えようとしている「リア充」とは別のことを述べているのかわかりませんが、それが外部の物を参照して、自己を演出しているということなのであれば、結局はその参照先が多様で流動的な現代では、なかなかしんどいことには変わりないのじゃないかと思いますね。
そんなわけで、参照すべきカーストがよくわからないどころか、そういう意味でのリア充を目指して消費することにも疲れてしまうので、一つの道として、必然的に「ミニマリスト」という考えも生まれてくるのでしょう。
一旦「消費」から離れて、本当に自分の生を豊かにするものは何なのか、消費するにしても、本当に自分の生を豊かにしてくれる消費は何なのかと見つめなおす段階というか。
だから、これも「虚無」という感覚にも話は繋がると思う。
『「虚無」を抜けた先にある「消費」って何だ!』という命題も面白そうです。
あと、「何を参照しているか」ということを「個性」としようとしてる、みたいな島宇宙社会特有の消費者の振る舞いとかふと思いついたんですが、もういい加減長いんでここらで。
思いつくままに書きました!
面白そうな本ですね〜。
>ただ、このカリスマ(笑)もまた、より大きな外部に参照先を持っているでしょう。ようは、「流行」に敏いということ。いち早く「イケ」てる(もはや太古の言葉?)記号をキャッチして、それを自分のパーソナリティに取り込む。
これは今やヤンキー、オタク、エリート、サブカルでも同じことが行われてますよね。
その島宇宙にもカーストがあって、サブカルカーストなら、よりマニアックな知識がカーストを決めたりと。ただ、その島宇宙があまりにも不安定で、流動的なので、そのゲームについていくだけでも大変なのはわかります。ヤンキーにしても、色んなタイプがあると思いますし、どのタイプが一番イケているかはよく変動するものだとも思います。
そういった中で、大きな物語として機能しているのが、Facebookだと思います。
つまり島宇宙が違えど、いいねの数、フォロワーの数、友達の多さ、アクティブなことをする、という『リア充度』は大きな物語として機能していると考えてます。
ヤンキー、エリート、オタク、サブカル問わずにバーベキューをして、Facebookにアップロードしているのは、それの証明だと思います。そういった意味でのリア充度でした。
今や消費より、リア充度の方がカーストとして機能している気がします。
コメントありがとうございました!
断捨離ブームもひと段落したところで次のステージへ行きたいわけですが、さてはて面白いとか価値とはなんでしょうね?っていうところで躓いていますね僕は。
どうしても考えてしまって、そこの答えは本能的なところで擽られてるとしか言いようがないのですが、
デザインや芸術的な仕事をやる場合、どうしても変な煽りや広告的な消費誘導のためにモノを作らないといけないわけです。
それを断捨離したり、安易な消費から離れようとしている自分が作るのはどうなの?と葛藤を覚えたりしてそこに割り切りができない…「
次の記事も楽しみにしてます
僕はトレーダーとして、勝負の世界でマッチョな価値観の中で仕事してますが、そこから一歩出るとヘタレになります。
矛盾している状態をいかに割り切るかは人それぞれだと思いますが、矛盾を昇華できれば新しい何かができるのではないでしょうか?
ちなみに僕は仕事はゲームとして割り切ってます。
こんにちは。いつもながら興味深い記事です。
生きて行くうえで自発的な選択肢ってなかなか出来ないように出来ていますよね。
常に権力者が選択肢を作り、我々は気づかないうちにその選択肢からしか選び取れないような仕組みになっています。
また、上のコメントで女性の方が見栄を張りたがるから、というコメントがありましたが、女性は長くモノ扱いされてきましたからね、モノとして着飾らないと、生きて行けません。
ただ、>カーストを決めるのは女性であり、男はそれに当てはめられ、カーストゲームに参加しているとも感じます。
この考え方は面白いと思いました。私はカーストを決めるのは男性で、モノでしかない女性はそれに従うものだと思っておりましたので。
>上のコメントで女性の方が見栄を張りたがるから、というコメントがありましたが、女性は長くモノ扱いされてきましたからね、モノとして着飾らないと、生きて行けません。
男性に気に入られる『物』として、自分の価値を高めるため着飾るという理屈はわかります。
ただこの価値観は廃れつつあり、今後更に廃れると感じてます。
スクールカーストの話になってしまいますが、女の子が男をランク付けして、それを共有していると思います。
サッカー部をイケてるとランク付けすれば、男はモテたいが為にサッカーをします。
このランク付けは変化するもので、時期によってイケてるカーストが記号のように変動し、○○やってる人がイケてるという流動的なカーストとなります。
あるカーストの男と付き合うことで、その記号を受け取り、自分のカーストも決定するゲームで、これは社会でも通用する理屈なのではないでしょうか?
女性のカーストは男性カーストのように記号的でないように思います。
つまり、純粋に外見がカーストを位置づけます。
可愛いかが重要で、それ以外の記号には大して価値がないということです。
そして可愛いカーストは男性が決定付けれるものではなく、自然に作られるものだとも思います。
普段から経済で頭をひねりまくって「?」になっている主夫(34)です。
文章から、高度な知性を感じました。
個人的な見解ですが、日本におけるカースト(のようなもの)は、今後、崩壊する方向にあると思います。
人類は、物的な消費から、ようつべなどの、「時間的な消費」を必要とする「余暇コンテンツの大量生産」時代に入りました。
この「余暇コンテンツの大量生産」については、人間の時間的都合(生命的な寿命の限界)で、比較的、近い将来、消費の限界が来ると思っています。
食料生産や、物的な生産は、人から機械へ、ほぼ移行しています(だから、食品や物品は安価です)。
では、ようつべなどの大量生産された「余暇コンテンツ」が「大量に余り出した」時、我々人類は、果たして何を新たに生産し、どうやって、それらを消費すれば良いのか(=どうやって資金を循環させれば良いのか)。
人工知能「東ロボくん」の発達具合などをみると、全産業における、人類の生産•消費能力が、比較的近い将来、限界に達し、世界中で大量の失業者が出る光景が、脳裏に浮かます(杞憂だと良いのですが)。
極論ですが、この様な観点から、少なくとも日本のカースト(のようなもの)は、将来的に消滅すると考えます(なぜなら、殆どの人々が、失業状態に陥るため)。
世界中で、人々が飢饉を恐れながら、畑を耕す時代が、再び来るのではないか…と思ってます(これは幸せなことかもしれません)
駄文長文(ついでに妄想ですね汗)、失礼しました。
ありがとうございます!
「時間消費」を必要とする「余暇コンテンツの大量生産」の時代というのは、すごい分かります。
今やスマホゲームは莫大な利益を叩き出す企業になってますし、スマホゲームは電車などのスキマ時間を狙い撃ちにしてきます。
物がヴァーチャルなカーストと結びついていた時代から、データーというヴァーチャルなものがヴァーチャルなカーストと結びつく時代だいへと変わっている気がします。
まあそっちの方が環境にもいいし、平和な気もしますが、とうとうここまで来たか!って感じです。
この消費に巻き込まれれば、時間のほとんどを余暇コンテンツに取られることになり、映画『マトリックス』さながらになります。
今はまだ2Dの単純なゲームですが、これがヘッドマウントディスプレイの時代になれば、人間の営みはヴァーチャル空間に向かって行く気がします。
もはや『物』を必要としない消費の時代は、どんどんヴァーチャルになりますが、まあ本来の消費はヴァーチャルな記号ゲームなんで、落ち着くとこに落ち着くかなと。
食料問題は、割と楽観的に考えてます。
この前、マミヤOPという会社が自動芝刈り機を開発しました。
農業の自動化が進めば、労働なしで食料が供給されますし、食料問題は大丈夫だとは思ってます。
興味深いコメント、ありがとうございます!
確かに、時間を必要とする余暇コンテンツの消費は、ヘッドマウントディスプレイなどのデバイスを経由した後、ある程度で限界に達し、そのブームを終え、いつか収束すると思います(いつか、スマホが歴史博物館に並ぶ時代が来るんだろうなぁ…と考えてます)。
医療技術が発達し、人間の寿命が140年くらいに延びると、この手の商売は、今後も、かなりの需要がありそうですが、、(汗)
自動芝刈機!
父方の実家が元農家で(今は廃業)、小さい頃、たまに小さな畑の草抜きを手伝っては、「しんど」とボヤいてたので(笑)、何か光輝くものが見えます。
個人的に、食料問題は、何らかの方法で、世界中で、飢えに苦しむ人々がいなくなった瞬間、その解決を迎えると、思ってます。
ご返事、ありがとうございました!
These pieces really set a standard in the inysutrd.
人類総ミニマリスト化の実現か
http://m.youtube.com/watch?v=6A7Yzz3IPaM
ソフトバンクの孫さんも似たようなことを言ってました。