素晴らしい体力と知力に恵まれたお前たち
伸びるべき可能性が潰されている
職場と言えばガソリンスタンドがレストラン
しがないサラリーマン
宣伝文句にあおられて
要りもしない車や服を交わされている
歴史の間で生きる目標が何もない
世界大戦もなく、大恐慌もない
俺たちの戦争は魂の戦い
毎日の生活が大恐慌だ
テレビは言う「君も明日は億万長者かスーパースター」
大嘘だ
その現実を知って
俺たちはむかついている

『ファイトクラブ』

 

 

前回の続きになります。

 

 

浪費と消費

浪費とは、 必要を超えてものを受け取ることです。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提です。

浪費は満足をもたらします。

理由は簡単で、ものを受け取ることには限界があるからです。

身体的な限界を超えて食物を食べることができないように、 浪費はどこかで限界に達します

 

浪費はどこかでストップしましたが、 消費はそうではありません。

消費は止まらない。消費には限界がない消費は決して満足をもたらさない。

なぜなら、消費の対象が物ではないからです。

人は消費する時、物受け取るのでありません。人は物に付与された観念意味を消費するのです。

 

ボードリヤールって人の理論らしく、本ではこんなことが書かれてたんですが、なんかしっくりきません

消費の例として、雑誌やテレビで紹介されている店に行って、「あの店行ったよ」って言うのが、消費だと書いてます。

この時、消費者が受け取っているのは、食事でなく、その店に付与された観念意味らしいです。

著者の國分功一郎さんは「消費するな!浪費しろ!」と言ってます。

具体的にどうすればいいのかがよく分かりませんでした。

もし分かる方がいましたらコメントで教えて下さい。

*追記
理解出来ました。物には「機能」と「記号」の2側面があるということなんですね。

 

 

ハイデッガーの退屈論

ハイデッガーによると、退屈には3段階あるらしいです。

 

退屈の第一形式(退屈させられること)

具体例を挙げると、

例えば、片田舎の小さなローカル線、無趣味な駅舎で腰を掛けている。

次の列車は4時間たったら来る。この地域に魅力はない。本を持っているが、その気にはならない。

時計を見る。やっと15分過ぎたばかりだ。

並木の数を数える。行ったり来たり歩いてみる。

時計を見る。5分過ぎた。

行ったり来たりするのも飽きてきたので、腰をおろそうか。

地面をジッと見てみる。

時計を見る。全然、進んでいない。

 

こんな感じの退屈よくありますよね。

ハイデッガーは、空虚放置引き止めのせいで、この第一形式の退屈が生まれていると言ってます。

暇つぶしがないと、何もない状態、むなしい状態に放置される。これが空虚放置。

そのせいで、時間がノローーーくなる。つまらん授業とか時間進むの遅いですよね。これが引き止め。

この場合、駅が何も提供してくれないんで、空虚放置されて、引き止めされるというわけです。

これへの対処法は、暇つぶしを見つけること。

つまり、スマホのクソゲーでもやってたらいいってことです。

 

 

退屈の第二形式(退屈すること)

これは第一形式と違って、仕事を提供してくれる暇つぶしを与えられてるにもかかわらず、退屈することです。

第一形式ではなにかによって退屈させられたのですが、第二形式は何が退屈させているのかわからない

具体例を挙げると、

 

我々は夕方どこかへ招待されている。だからといって、行かなければとうこともない。

まあ暇だから、行くことにしよう。

そこでは、慣例通りの食事が出る。食卓を囲んで慣例通りの会話が交わされる。

美味しいばかりでなく、趣味もいい。

食事が済むと、楽しく一緒に腰を掛け、音楽を聞き、談笑する。愉快である。

とても素晴らしい会だった。

今晩の招待において退屈であったようなものは見つからなかった。

食事も、会話も、場所も退屈ではなかった。

満足して帰宅したのだった。

明日の仕事のことを考える。するとふと気がつくのだ。

今晩、本当は退屈してたのだ、と。

 

なんとなく分かる退屈です。

飲み会に行って、その場では退屈だと思ってなくても、帰ると退屈だった、とか。

ネズミーランドに行って、はしゃいでたのにもかかわらず、実は退屈だった、とか。

退屈になる要素がないのにかかわらず、退屈になる状態。

多分、僕達には一番よくあることだと思います。

 

この現象も、ハイデッガーは空虚放置のせいやと言ってます。

第一形式での空虚放置では、物が暇つぶしを提供してくれないから、むなしい状態にさせられるということでした。

しかし、この第二形式では、物が色々提供してくれています。食事や、音楽、会話。

パーティー自体が暇つぶしなのに、退屈になるという現象。

 

これは、周りに合わせるために、付和雷同的な投げやりな状態になり、空虚放置になるということ。

飲み会で周りに合わせた会話をするために、自分を周りに合わせる。

周囲に自分を任せっきりにすることで、自分の中に空虚が生まれる。

それが、なんとも言えない退屈を生み出す。

 

先にこの本の結論を言いますと、著者の國分功一郎さんは、この第二形式を楽しく生きろ!と言ってます。

第二形式の退屈への対処は、人類が生み出した暇つぶしの知恵や!それを楽しまないかん!

第二形式の退屈を感じるんは、教養とか感性が未熟やからや!そういうのを楽しめるように修行しろ!

以前、文化資本について記事を書いたように、理解はできるんですが、具体的にどうすればいいのかが、やっぱよく分かりませんでした。

本書でも書かれてますが、それこそ消費社会に狙い撃ちされそうな気がするんですけど。

男の隠れ家とかの「大人はこれをたしなめ!」って煽りを真に受けそうです。

う~ん。

 

 

退屈の第三形式(究極の退屈)

第一形式は、外からの退屈。第二形式は、内からの退屈。

第二形式の方が、深い退屈。

しかし、ハイデッガーは更に深い退屈があると言ってます。

例を挙げると、

 

なんとなく退屈だ。

 

これが退屈の第三形式です。

たったこれだけ。

第一形式、第二形式では何かしらの具体的状況が想像出来ましたが、第三形式では、状況など関係なしに退屈になってしますのです。

この第三形式の退屈では、暇つぶしは許されません。

暇つぶしをしても何も解決しませんし、この退屈から逃れる術はありません。

深い空虚放置の中にいるので、とてもむなしいし、人生つまらん。

このブログで言うと、人生つまらんの記事が、この退屈の第三形式でしょうか。

 

この救いようのない第三形式ですが、ハイデッガーはここにこそ、最大の可能性があると言ってます。

退屈の第三形式では、自分に目を向けることを強制される。

最高度に深い退屈がもたらした絶対的な空虚放置を打ち壊し、状況を切り開く可能性に目を向けることを強制される。

そこでこそ、人間としての自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされる。

ゼロであるからこそ、ゼロを突破する可能性が見える。

 

これはしっくりきます。

なぜなら僕が経験したからです。

人生つまらんで正に退屈の第三形式にいたんですが、ももクロの助けもあってか、今はそんなことないです。

しかし、著者の國分功一郎さんは、このハイデッガーの第三形式をディスってます。

こんなん奴隷になるかもしれんやろ!狂気や!

熱量を搾取されるかもしれないというラッセルへのディスと同じです。

ネ◯ミーランドとかワ◯ミとかってこういうのを利用してくるイメージがあります…

 

 

終わりに

僕はラッセルとハイデッガーの意見が、すごいしっくりきました。

これや!これ!ってなりましたもん。

しかし、國分功一郎さんは結構否定的でした。

ラッセルとハイデッガーをやったらディスってんですよ笑

「彼(ハイデッガー)はパーティーを楽しむ能力がなかった」とか笑

どんだけ上から目線だよ笑

 

國分功一郎さんは、第二形式をいかに上手く生きるかということを主張してました。

有閑階級の暇つぶしや、浪費や、また教養や感性を必要とする芸術を推奨してます。

なんだかハイクラスになれよお前ら笑と言われてる気がしました。笑

じゃあ、せめて具体例くらい書いてくれよ笑

でも、僕も文化資本についての記事を書いてあるくらいだから、なんとなく理解はできます。

食や芸術を楽しめる感性は人生を豊かにします。

ただ、広告や雑誌などに狙い撃ちされないようにしないといけません。

この店に行け!これを嗜まないと大人じゃない!パンケーキ!!

見極める力が必要ですね。

 

この本のいいとこは、色んな哲学者の意見が知れるとこでした。

ここで紹介できなかった部分もかなりありますし、何回か読んでも楽しめます。

ただ抽象度が高くてイライラはしましたが笑(理解できない自分が悪い

 

あと、個人的に第二形式を上手く生きてる人は、いわゆるfacebookに写真を載せるリア充だと思いました。

リア充イベントにコミットして、リア充仲間と共に時間を消費していく。

僕はそういうリア充に懐疑的な考えを持っているので、國分功一郎さんの第二形式を生きろって意見がなかなかしっくりこないのかもしれません。

 

暇と退屈の倫理学

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  • 最近のコメント

  • 15 コメント

    1. ここ数ヶ月の間に一皮剥けて文章がキレキレになられましたね。
      特に今回

      今までキャラが薄かった印象でしたが、肘さんって面白い人なんだって気付きました!

      0
      • ありがとうございます笑

        多分、ブログ書くのに慣れてきたんだと思います。

        これからもよろしくお願いします^^

        0
    2. 前回の記事で興味をもって読んでみたのですが、とてもおもしろい本ですね!

      浪費について、本書では「浪費とは、必要を超えて物を受け取ること」と定義されています。ここでのポイントは、「必要を超えて」という部分だと思います。なぜなら、「必要を超えて」物を受け取るためには、その前提として、「自分には少なくとも何がどのくらい必要であるのか」を知っていなければならないからです。当たり前ですが。自分が必要とする最小限の物量をわきまえていなければ、必要以上の物量を受け取ったとしても、それが必要以上であるという認識を持つこと自体ができないはずです。自分の必要最小限の物量を知ることによってはじめて、浪費が可能になるのだと思います。消費社会は、意味や観念をまき散らすことによって、各個人が必要とする最小限の物量を見えなくさせ、その盲目のうちに消費を促そうとするのではないでしょうか。

      浪費というと無駄遣いのイメージがありますが、少なくとも本書では違うと思います。浪費の本質は、どれだけ少ない物量で自分は満足できるのかという節制的な態度にあるのだと思います。逆説的ですが、浪費するためには節制的な態度をとる必要があります。なぜなら、節制的な態度が浪費を可能にするからです。そして、そのような態度をもっとも純粋なかたちで追求したものが、ミニマリストの生活なのではないでしょうか。ミニマリスト生活は、物に付与された意味や観念を消費社会のがわへ意図的に還元してあげることによって、物そのものを享受し、消費ではなく浪費を目指す試みであるといえると思います。(より正確には、贅沢なき浪費というべきかもしれませんが。)このような<人間であること>を楽しむ態度によって、思考を強制するようなとりさらわれること、すなわち<動物になること>の訪れを待ち構えることができる、というのが本書の結論だったと思います。この結論に則すると、肘さんはミニマリスト生活をおくることによって、図らずも消費ではなく浪費を実践することになり、それが待ち構えの態度となり、ももクロと出会い、それにとりさらわれた、ということになると思います。

      浪費と消費を手がかりにして、ミニマリスト生活と関連させながら読んでみました。ちょっと強引な解釈だったかもしれませんが。

      パンケーキ!!のくだりには笑ってしまいました。おもしろい文章が書けてうらやましいです。

      駄文・長文失礼しました。

      0
      • めっちゃ「しっくり」きました。
        更にこのブログに合わせた解説までしてくれるとは…
        解説コメントありがとうございます!
        読みやすいし、本当に素晴らしい文章です。
        夜のちくわさん、何者なんですか!?笑

        「必要を超えて」をポイントに理解すると、非常に分かりやすいです。消費は観念を売っているので、確かに必要な量を設定するのが非常に難しいし、無限に消費できるもんですよね。

        必要な基準を設定することが浪費の本質であるということも理解出来ました。そもそも浪費は物を受け取ることなんで、必要な基準が設定しやすいし、されてるものですもんね。

        本来浪費すべきものを消費するほどアホなことはないと思います。
        例えば、食が消費されるのは正にそれです。
        食品偽装問題で明らかになりましたが、食の感性がないのに、食を消費していたことが露呈した事件ですよね。
        結局、提供する側からの暴露でしか発覚しなかったのは、消費社会を象徴した事件だと思います。
        高級エビという観念を消費してるだけだったわけです。

        無駄なものを削ぎ落としていくというミニマリストの思想が、この「必要な基準を設定する」ことと似ているとも感じます。
        そして基準を設定するには見極める力が必要です。
        今後、それをどうやって身につけていくかを考えていこうと思います。

        0
    3. ちょっと詳細な内容を忘れてしまったのでこれからもう一度読みたいと思っていますが、個人的な意見は以下の様な感じです。
      暇の第二形についてですが、「周りに合わせるために、付和雷同的な投げやりな状態になり、空虚放置になる」まではいいかなと思っていて、対処なんですが、教養とかもとっかかりとして大事なんですが、能動的に、自分がやりたいようにできるように場をコントロールすることが重要なのではないかと考えています。すみませんちょっと時間がなくて推敲できませんでした。意味不明だったらすみません。

      0
      • 能動的に場をコントロールできたら確かに楽しいですもんね。
        おっさんの武勇伝を聞かされる飲み会とか地獄ですもん笑
        あえて空気を読まないことが人生を楽しむ秘訣かもしれませんね。

        ただ、この第二形式を楽しむ力ってのは、想像以上に難しい気がします。
        芸術を楽しめるレベルの教養ってかなり高レベルですし、空気を読まずに場を支配する力は努力というより才能な感じがしますし。
        言っていることは理解できるのですが、実践となると難しいですよね。

        0
    4. 初めまして*いつもブログの更新を心待ちにし、ウキウキしながら読ませて頂いてます(*^^*)

      私は昨年の末に退職をして、そこから中々次の職が見つからない間の期間でミニマリストの定義に辿り着きました。収入がない→欲求があるのに買えない→これまで買い漁った大量の物に囲まれているけど満足感は1%もない→物の意味って何?
      それからはこちらのブログが私の教科書の様になってます。愛用本とでも言うのでしょうか、過去記事を見返す事も多いです。とっても勉強になります。

      今回の記事も私だけでは考える事などなかったであろう内容でした。記事を読むたびに新しい世界を創り出して頂いてる感じです!

      もし次にオフ会があれば是非参加させて下さい♪まだミニマリストには程遠いですが(笑)

      0
      • コメントありがとうございます!

        なにかしらの強烈なきっかけが、普段当たり前と思っていることに対して疑問を持つことに繋がりますよね。
        このブログがアップルティーさんのお役に立てて嬉しいです。
        こうやって相互にコメントすることで、僕も勉強になりますし、そのやりとりがまた面白いです。
        ぜひぜひ気後れせず、ガンガン思ったことを書いてくれたら嬉しいです。

        オフ会またやりたいと思っているので、またやるときに書きますね!

        0
    5. 時間が開いてしまいました。パンケーキで爆笑しました、不覚。
      こんな芸風身につけてられるとは…。脱冠(脱帽の高度な版)しました。

      國分さんの考えは、いわゆるチュウヨウ(中庸)なのですね。もっともなことだと思います。

      この動画を思い出しました。 https://www.youtube.com/watch?v=c8h_7B3MLJA
      先日鬼籍に入られた、昭和の思想家、吉本隆明について、世代のちがう二人の評論家が語り合っています。(動画の収録じたいは、氏が亡くなられる前ですね。ためのねん。)(『歎異抄』をからめた興味深いコメントもつけられていますが、さておき。)

      佐高氏がいうように、彼の思想は「ふりちん」でありました。ソレを出されたら、もう、お手上げ。社会的には無法者の思想、しかしそのために、吉本氏の思想は、人間のもっとも深いところまで届きそうな迫力がある。その迫力ある思想は、多くの学生運動家たちに多大な影響を与えた。
      そんな可燃性の危険物を、大のオトナが、人前で出すべきではない。社会で生きる、われわれのとるべき道はチュウヨウであろう…。

      そうなんですよね。

      しかし、「ふりちん」思想家が経験した歴史の記憶は憶えておきたい。出征して、「社会で生きる」どころか、「ふりちん」にすらなれず、亡くなった若い人々が、大勢いた。
      チュウヨウは国を亡ぼした・・・のかもしれない。(そうだ、『風立ちぬ』をもう一度。)

      「退屈の第三形式」が奴隷の道徳につながりうるというのは、残念ながらじじつだと思います。「第三形式」に遭遇した者たちは、真剣に次の問いについて考えるべきだと思います:
      「ワ○ミズムは、日本人が忌避すべき本物の『悪』なのか?」。
      この問いを行き着くところまで問い詰めることが、退屈なわたし達、日本人にとって、じつは必要なのではないでしょうか。

      西洋的法理論では、ワ○ミズムなど問答無用、一発アウト&即退場。ですが、それが現実に許容しつづけている奇妙な社会で、成文憲法という市民原理を回避して、実体を持ち続けている『思想』について反省をくわえることは、退屈という特権(=呪い)をもつ者の、避けては通れない行程であると思うのです。

      皮肉なもので、資本主義的な価値から逃れようとすればするほど「退屈の第三形式」が、妖しい魅力をはなちつつ、軒先へ上がり込もうとしてくるのかもしれません。妖怪・ワ○ミ。

      「ワ○ミに生きがいを貰いました。」と述べていた店長さんは、本気だと思います。彼を“脱洗脳”するには?という各種の実務家やカウンター・ビジネスに携わる人々の問題意識なら、すでにありふれていますが、もっと科学的に淡淡と現象をひもといてゆく作業が欠かせないと思います。

      わたくしもしばらくは、「退屈の第二形式」の茶話室で、『退屈の究極的解決』という茶話でもしつつ、國分さんレコメンドの生活実践を続けることにします。
      (ティーカップを持つ手の微震は止まらない…。)

      長々とコメント失礼いたしました。
      近々、自分でも発信基地(ブログ)を開設したいと思います。

      ミニマリズムそのものではないものの、現状の社会文化に対して、自分をそれに副(そ)わせるだけではなくて、社会を積極的に変えてゆけるほんものを、わたしも求めています。

      肘さんのブログは勇気をくれます。
      自分は考えはじめると、考えること自体に夢中になり過ぎて、現実の生活実践から遊離し、つい、抽象的なコトバ遊びをしたくなる困った性分があるようです。肘さんのブログを見て、スーツケースを机として使えるのかッッ成程ッッ!!!!と、日日警策を頂戴しております、闇で、勝手に。

      先達の叡知をひしひしと肌身に感じます。
      有り難うございます、梅田近辺でパンケーキ美味しいとこ教えてください。

      0
      • 長文お疲れ様です笑

        吉本隆明は知りませんでした。
        動画見て見ようと思います。

        第三形式を真剣に考えることが、社会的に必要な作業であることは間違いないです。
        ワタ◯ズムは確かに問題ですが、被害をうけるのはそこで労働力を搾取されている人だけでとどまります。所詮、飲食の一会社が暴れたとこで、そこまでの被害はありません。
        しかし、それよりも更に大きいものが第三形式を利用した場合の被害は、そこで騙された人にとどまりませんよね。
        そこが問題だと思います。

        第二形式を生きるとおっしゃってますが、第二形式を生きる本質はあくまでも迎合。なにかしらの価値観を学び、それに迎合すること。偉大な先人たちがつくった暇つぶしと言っても、所詮は暇つぶしでしかありません。
        否定はしていないですが、濃厚な生を生きるには『足りない』。
        そして、何も新しいものを生み出さない。
        まあこれは言葉でどっちがどーたらってレベルを超えて、性分のレベルになるのでこれ以上は何も言えません。

        ブログやるなら手伝いますよ。
        梅田にすごく女子力がUPするパンケーキ屋があるので、そこでストレスフリーなヘルシー生活実践して愛されブログについて語りましょう。

        0
    6. 365日のシンプルライフ僕も見てきました。
      主人公のおばあちゃんの言葉が
      とても印象に残っています。
      断捨離とは物の所有過程が逆方向ですが
      結局最後は行き着く先が同じになるのかと思いました。
      関係ないですがフィンランドのカフェとか観てるとすごくコーヒーが飲みたくなったのでいろんな店でコーヒーを飲んで行こうと思っています^ ^

      0
      • 365日のシンプルライフについて記事書きました。
        フィンランド人は、夏にモッキで過ごしたいと思ってるそうです。
        モッキは田舎にあるサマーハウスで、大体、湖の側にあって、物はほとんどない場所らしいです。
        そういう環境がある文化が羨ましいと思いました。

        やっぱ何かオシャレなんですよね。フィンランドって。
        日本はフィンランドから学べることがたくさんあると思います。

        0
    7. 初めまして。
      僕自身は大してミニマリストではないですが、モノを所有するリスクについてはなんとなく理解があって、辿りつきました。

      この記事を読んで、学生時代に読んでいた宮台真司の主張を思い出しました。
      彼の主張を私の理解の中で要約すると、

      「本物の自分らしさとか、自分の生きるべき輝かしい生、このために生きるのだというような至高のものなんて、これからの時代に求めても無駄である、だから一旦それらに絶望して、日常の中で生に濃密さをもたらしてくれるような体験に帰りなさい、そのためのスキルを身につけるために努力しなさい」

      というようなところでしょうか。さらに噛み砕いて言えば、

      「生きる意味?そんなもん探しても見つからねえよ。バカな幻想にとらわれてないで、街に出て女を抱け」

      です。

      スキルというのは、ようはコミュニケーションスキルですね。世の中で誰かと一緒に楽しむためには流行を知らなければいけない。楽しめなければ一緒に熱狂もできない(フリもできない)。空気が読めなければ、場に溶けることも、場をコントロールすることもできない。

      こうつきつけられた時、私は何を思うかといえば、「無理!」ですね(笑)
      今更この手のスキルを身につけ、そのために人生を消費せよといわれても、しんどすぎる。

      実は彼がこの言説を流布していた後、彼の著作を読んでいた青年が自殺したということがあったようです。
      理解できます。ようは、そういう生き方に馴染めず、そういう生き方にこそ絶望している真っ最中の人に、いや人生はそれ以外にないんだなんて言ったら、そりゃあそうなるというだけの話ではないですか。
      (だから、これを受けて宮台は全てを否定しないまでも、自身の言説についてやや反省的な論調に変化したようです。すみません、ここらへんはあまり読んでないので詳しくはわかりませんが)

      この國分功一郎や宮台真司の言説について思うのは、仮に彼らの述べる処方箋が一つの真実であるとして、だから具体的にはそれはどうやったら獲得できるのか、それは資本主義・消費主義の社会の中で皆が獲得できるものなのかということですね。
      キョロ充なんて言葉があるようですが、あるコミュニティの中で本当にリア充であれる人もまた、ヒエラルキーにおけるほんの一部の勝ち組なんじゃないか。

      とことんそこにある人間の複雑な欲望の集積所みたいな俗世間に適応して、何も疑問に思わず、ああ楽しかったと終われる人生もあるのかもしれません。でも、これだけ人類が宗教や戦争と離れられず、豊かさを実現した現代社会の中でも心を病んでしまう(誰もがリスクを抱えている)という事実は、第三形式の先にある可能性と罠の問題と同程度に、第二形式の徹底の困難さを表しているのではないかと、私は思います。

      どちらも処方箋としてはありうるが、結局万能の答えではない。
      少なくとも、一方の側から、偉そうに一方を否定できるほどのものではない。少なくとも現状では。

      結局、じゃあどう生きるのがいいのか、答えられないわけ?
      と聞かれてしまえば、はいそうです、としかいえないんじゃないですかね。
      人間なんて複雑で、わけわからんくらい多様で、幻想みたいなものですし。
      逃げみたいな解答ですが、個々人によって良い処方は変わってくる。

      こちらのブログで、このようなエントリーを書かれていることも、それが解答なのではなく、それを必要とする人にとって意味をもつのだからいいのだと思います。それは國分や宮台の言説もそう。

      私なんかは、このエントリーに中身対して、そう、そうなんだよなぁ、と腑に落ちるタイプですが(笑)
      ももクロの記事で感覚と合理性みたいな話があったと思いますが、似たような構図で、自分はある方法でうまくいったものを、別のやり方が否定しているから、やっぱり間違っていた、なんて思うのはナンセンスですね。
      両方取り入れて試しながら生きればいいんだと思います。

      社会の混沌の中で自分が取り込まれているものたちを一度洗い直すという意味で、一旦どこまでも削ぎ落とし、虚無まで落ちていくことは必要で、その上で、やはり現実に生きていかなければいけない世界がある。そうして再び戻ったときに、実際に自分が触れたものがどんな意味を自らに告げ知らせてくれているのか、ようやく取捨選択できるのだと思います。
      第三形式に一度落ちて、しかし罠にかからずに、第二形式に戻る。完全に戻ったらまた取り込まれそうですが、境界に居るのがいいのかな。

      あ、落ちるなんていうと、坂口安吾の堕落論を思い出します。「続・堕落論」が分かり易いですが、彼もまた世間の用意した枠組みから一度堕ちろというんですよね。それを通じて一度孤独になってこそ、そこから真実の人性が生まれる。

      それで、結局何が言いたくてコメントしたわけ?
      というと、ただ感想というか、思ったことを書いただけでした。超長々とすみません。

      他の記事も楽しく読ませて頂いています。ありがとうございます。

      0
      • コメントありがとうございます!

        宮台真司さんをそこまで詳しく知らないのですが、多分マッチョな思想の方だと思っています。

        言葉の人より、身体の人になれ。

        こんな感じの事をよく言っておられる気がしますが、そもそも宮台真司の本をわざわざ読む人間は、言葉の人です。

        そんな人に、身体の人になれ!リア充(キョロ充)になれ!タフになれ!なんて言うと、絶望に叩き落とされ、這い上がれない人が自殺するのはありえる話だと思います。

        究極の答えはありえないですし、あるとすれば人それぞれ違った答えがあると僕も思います。

        こういう人らの言説をあまり真面目に取りすぎるのは危険だと思ってて、僕は漫画を読むレベルで楽しんでます。

        ワンピースも読めば、ファイブスター物語も読み、アオハライドも読むといったように、様々な価値観を楽しみますが、「やっぱどれも面白いよね」といった相対主義者になるのは嫌です。

        様々な価値観を認めるのは大切ですが、その上で「これクソだな」と言える人になりたいと思っています。

        浦沢直樹は冷静的確に、まあまあ面白い漫画を描くんですが、熱さがないんですよね。

        『俺の空』の本宮ひろ志先生みたいに、バカで熱い漫画が好きなんです。

        何が言いたいのかと言いますと、

        学者の言ってることを、そこまで真面目に受け取らない。

        相対主義者にはなりたくない。

        この2点なんです。

        「國分先生が第二形式で生きるしかない!って言ってるけど、俺には出来ない!絶望した!鬱だしのう…」

        真面目に受け取り過ぎたら、こんななるんすかね笑

        ちなみに僕の意見は、國分さんの第二形式を生きろ!という意見にあまり賛同せず、第三形式で生きたいというものです。

        第三形式で生きるということは、相対主義者じゃムリで、熱さが必要だと思います。

        熱いコメントありがとうございました!

        0

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