ゲームは結果がすぐ出るから面白い。これは前提だ。俺は板を見て飯を食っている人間で、買う、約定、上がる、下がる、1秒、はい次、その速度で10年以上やってきたしその速度が好きだし好きだから言い切れる、面白さとは速度で、速度とは結果が出るまでの短さで、以上。
メモが残っている。2022年11月。『プレイ・マターズ』を読みながら俺はこう書いている。「ゲームは結果がすぐ出るから面白い→バスを運転して砂漠を出るゲームはクソゲー」。矢印付き。判断が早い。4年前の俺は本の中にバスを見つけて、読む前に轢いた。同じメモの3行上には「遊ばされている感があるゲームは駄目」ともある。2本。この2本で俺のゲーム観は完成していて、完成しているから4年間読み返さなかった。
で、読み返したら、轢いたはずのバスが芸術だと書いてある。しかも本の中でいちばんまじめな章、美の章に。
Desert Bus。知っている人は知っている。1995年、セガCD用に『ペン&テラーのスモーク・アンド・ミラーズ』というソフトが完成した。アメリカの2人組マジシャンの名前を冠したミニゲーム集で、その中の1本がこれだ。ツーソンからラスベガスまで、まっすぐな道をバスで走る。360マイル。最高時速45マイル。所要時間8時間。実時間で8時間。距離の計算が正確だからだ。対向車はいない。景色は枯れ木と茂み。途中にバス停があってドアは開くが誰も乗ってこない。バックミラーには空席が並んでいて、木の形の芳香剤が揺れている。サンバイザーには運転手の名前。バスは放っておくと右に寄る。だからハンドルを左に切り続けなければならない。ポーズはできない。道から外れると砂にはまってオーバーヒートして、前の停留所までレッカーで戻される。これも実時間。ラスベガスに着くと1点もらえる。1点。そして聞かれる。引き返すか。

クソゲーだ。2022年の俺は正しい。
正しいまま続ける。このソフトは発売されなかった。発売予定日は1995年4月1日で、エイプリルフールに出るはずの冗談が、会社に発売する金がなくて出なかった。完成していたのに。箱に入る前に会社が消えて、それから10年、誰もこのバスを運転していない。2005年、レビュー用の盤のバックアップを持っていた人間がフォーラムに書き込んで、翌年にはデータが出回って、やっと走り出した。本の訳注にはプレイできるサイトのURLが載っていて、その横に訳者が〔アクセス&プレイ不可〕と書き添えている。本の中でもバスは止まっている。発売されずに10年倉庫で待って、出てきたら8時間走る。待つことの化身みたいなソフトだ。
作った側の言い分がまた悪い。発案はエディ・ゴロデツキーという放送作家で、当時アメリカの司法長官だったジャネット・リノが暴力的なゲームを叩いていたのに対して、じゃあ暴力ゼロの、徹底的にリアルなゲームを作ってやる、という返答だった。つまり冗談だ。ペン・ジレットは後に、90年代のゲームをめぐるモラルパニックへの返答で、可能なかぎり無害なゲームを作ろうとした、と語っている。無害。無害すぎて害になる域まで無害。おまけに発売されていれば最高得点者はペンとテラーと一緒に本物のパーティーバスでラスベガスへ行けるはずだった。ショーガールと生バンド付き。本当の報酬はゲームの外に置いてあって、ゲームが出なかったのでそのバスも出ていない。当時の雑誌はこう書いた。
brilliant in concept, if mind-numbingly boring in gameplay
発想は見事、ただし遊ぶと頭が麻痺するほど退屈。
これだ。これを俺は4年前に矢印1本でやった。雑誌と同じ判定を、雑誌より速く出した。速い。速いのが俺の取り柄だ。

本は8時間を美と呼んだ
ミゲル・シカールはこの本の5章で、遊びはどこで美しくなるか、を書いている。先に本の土台を言う。美しいのは物ではない。その物と人がどう付き合うか、という行為のほうだ。絵が綺麗か、システムがよくできているか、は採点表に入っていない。入っているのは、その物の前で人が何をするか、だけ。ツイスターを思い出せばいい。あのマットは美しくない。美しいのは、マットの上で大人同士が絡まって動けなくなっている時間のほうだ。そういう本だ。
その土台の上で、遊びが美しくなる型を3つ挙げている。最後がこれで、プレイヤーに快を与えず苦痛を押しつけてくるのに遊び続けさせるゲーム、本の言葉で言えば虐待的なゲームだ。シカールはアラン・カプローの名前を出す。50年代にハプニングを始めた人で、遊びこそが芸術の形式主義を壊す力だと言った。Desert Busはカプロー的なゲームだ、と本は言う。遊びを使って、遊びの決まり事を内側から攻撃しているから。
引用する。長いから1本だけ。
わたしたちは、ゴールが無意味であること、それを目指す過程がつまらないことをわかっていてもなお遊び続ける衝動に駆られてしまう。『Desert Bus』は、その事実についてあらためて考えさせるものだ。
ゴールは1点。過程は8時間の直線。それでも人は運転する。普通のゲームは、遊んでいる人間の姿を結果で隠す。勝った、負けた、レベルが上がった、ムービーが流れた。画面に出るのはそっちで、コントローラを握っている人間は映らない。Desert Busはその覆いを全部外した。得点は1。演出はない。敵もいない。残ったのは、8時間ハンドルを握っている人間だけで、なぜ握っているのか、という問いを、ゲームが8時間かけて運転手本人に突きつける。だからこのゲームは勝ち負けではなく、遊ぶという行為そのものの姿をあらわにする、と本は言って、ラスベガスに向かう8時間の旅のなかで芸術と人生を融合させる、とまで言う。本はもう1つ嫌なことを言っていて、プレイヤーは遊びたいのに遊ばれることを拒絶してくるゲームに服従しなければならない、それがこのゲームの美的経験だ、と。遊ばされている感が駄目だと書いた俺に、遊ばせてくれないゲームを持ってきた。何もさせてこない。左に切れ、だけ。
言いすぎだ。と書きかけて手が止まった。止まった理由はカナダにある。
2007年11月、カナダのビクトリアでLoadingReadyRunというコメディ集団が、このバスをぶっ通しで運転して寄付を募った。子ども病院にゲーム機を贈るChild’s Playという団体への寄付。初年度に集まったのが22,805ドル。そのうち500ドルずつはペンとテラーが出している。自分たちの冗談が12年越しに走っているのを見て、作者が金を払った。それから毎年11月、彼らはバスを運転している。1週間。168時間。2024年は1週間で125万ドルを集めて、累計は1,100万ドルを超えた。
1,100万ドル。1点のゲームで。

彼らは理論を書かなかった。カプローも読んでいないだろう。見つけて、笑って、運転した。俺は矢印を書いた側で、矢印を書いた人間は4年間一歩も進まず、運転した人間は1,100万ドル先にいる。ハンドルを左に切り続けただけで。左に切る、を17年。俺の矢印は右を向いている。バスと同じ方向だ。放っておくと右に寄る。
俺は4時間の駅を知っている
もっと嫌な記録がある。2014年、このブログで『暇と退屈の倫理学』の感想を書いた。ハイデガーの退屈の第一形式の例を、俺は本から丸ごと書き写している。片田舎の駅。次の列車は4時間後。本は持っているが読む気にならない。時計を見る。15分。並木を数える。歩く。時計。5分。で、その退屈への対処法として、俺はこう書いた。「スマホのクソゲーでもやってたらいいってことです」。
スマホのクソゲーでもやってたらいい。

Desert Busは、その駅を箱に詰めたものだ。4時間の駅を8時間に伸ばして、並木を枯れ木に替えて、駅の時計を速度計の横に移して、立ち去る自由だけ抜いた。ポーズがないから。
2014年の俺が言った「クソゲー」は、駅から逃げるための道具だった。退屈の外にある物。それを開いたら中身が駅だった、というのがDesert Busだ。退屈から逃げるために手に取る物が、退屈そのものでできている。逃げ先が、逃げてきた駅。
ここで俺の矢印が曲がる。2022年の矢印は「結果がすぐ出ない、だからクソゲー、だからダメ」だった。クソゲー、までは消さない。消えるのは「だからダメ」のほうだ。クソゲーなのは駅と同じだからで、駅と同じなら、あの駅で4時間待った人間だけが知っている何かを、このゲームは8時間かけて運転手に教えてくる。
何を。知らん。知らんが、速度計の横に時計があるのは嫌だ。
俺の仕事は結果がすぐ出る。それが好きだと冒頭で言った。言ったが、1日のうち約定の音が鳴っている時間を足したら何分になる。鳴っていない時間のほうが長い。板を見て、待って、右に寄るのを左に戻して、待つ。ディーラーの1日も、ほとんどは直線だ。結果が出る1秒のために残りを運転している。それを俺は速度と呼んでいた。速いのは1秒だけで、あとは砂漠だった。
ついでに言うと、この10年、俺は毎日デイトレをしていない。真面目に、ストイックに、と自分で書いた。結果がすぐ出る商売で、結果がすぐ出ない持ち方を10年。右に寄る株を左に戻しながら。何点のために。……やめよう。この話は右に寄りすぎた。レッカーが来る。
戻す。シカールがこのゲームを美しいと言う根拠は、物じゃなく行為にある。バスの絵は粗い。景色は枯れ木。美しいのは、1点のために8時間ハンドルを握る人間の姿で、その姿を見せるためにゲームの側が退屈を引き受けている。結果がすぐ出るゲームは、結果を見せる。結果がすぐ出ないゲームは、遊んでいる人間を見せる。だからDesert Busは、結果がすぐ出ないから芸術になった。正確に言う。結果が出ないのは手段だ。本が美しいと呼んでいるのは、結果が出ない8時間のあいだ、画面に運転手しか映らないという事実のほうだ。バックミラーに映るのも空席だけで、空席は運転手を見ている。

2022年の矢印は消さない。クソゲーだ。クソゲーであることと芸術であることは、このバスの中では同じ席に座っている。空席だらけだから隣に座れる。
俺はやっていない。やらない。8時間だぞ。と言いながら、ラスベガスに着いたあとに引き返す選択肢がある理由だけは、もう分かっている。1点では足りないからだ。誰にとって。運転した人間にとってだ。
遊び心の哲学
フィルムアート社
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