俺は夕日が好きだ。本当だ。本当なんだって。十二年撮ってないけど好きだ。十二年。じゅうにねん。言い直しても縮まない。
駅の高架の上で空が全部オレンジで、電線五本、カラス一羽、絵に描いたようなという言い方がもう負けてる夕日が来て、隣のおっさんがスマホを出した。出して構えて撮った。ノータイム。カシャ。画面一秒見て「おお」。仕舞った。帰った。おお。おおだけ。おおで終わった。終われるのかそれで。終われるんだよあの人は。見ろあの背中、何も、何ひとつ引きずってない。俺もスマホを出す。出した。構えた。オレンジ、画面に入った。入ってる。あとは押すだけ。押すだけなんだって。親指が、止まった。
止まるな。押せ。押せって。押——せない。なぜだ。知ってる。知ってるから嫌なんだが白状します。十二年前の俺はこの手の夕日のためにカメラを買っています。三年迷った。三年。さんねん。車でも三年は迷わない。中古三万円。動機までブログに書いてある。いい写真を載せたい。で? で、その三年三万のカメラで最初に載せた写真が、石像。石像だよ。謎の。どこの何かも書いてない。書いてあるのはこれだけ。「せっかく買ったのにこのようにゴミ写真しか撮ってません笑」。ゴミ写真。笑。笑? おい。三年悩んで買ったカメラで撮ったのが夕日でも海でも人でもなく石、で、自分でゴミって呼んで、呼んだ上で笑って、笑うな。十二年前の俺、笑うな。その笑い何。誰向け。お前その時点でもう、照れる相手がいたんだろ。客席、あったんだろ。
ブルデューだ。また来た。胃と喉の次は親指。この本、俺の体を上から順に解剖しに来ている。次どこだ。
一九六〇年代のフランス。千二百人ほどに聞いた。次の題材で写真家は美しい写真を撮れそうか。面白いか。無意味か。醜いか。題材は全部で二十一個。行くぞ。
- 風景
- 交通事故
- 猫と遊ぶ少女
- 妊婦
- 静物
- 授乳する女
- 金属の枠
- 喧嘩する浮浪者
- キャベツ
- 海に沈む夕日
- 機を織る職人
- 民族舞踊
- ロープ
- 木の皮
- 肉屋の店先
- 有名な建造物
- 廃車置き場
- 初聖体拝領(カトリックの子どもが初めて聖体のパンをもらう儀式。親戚が集まって記念写真を撮る、フランス版七五三みたいな行事)
- 負傷者
- 蛇
- 巨匠の絵
見たか。九番目。キャベツ。混じってた。混じってる時点で罠だ。キャベツと夕日を同じ紙に並べて「どっちが美しい写真になると思う?」って、それ写真の話の顔して、お前はどっちの人間だ、って聞いてる。アンケートの皮を被った検問だ。
で、みんな正直に答えた。海に沈む夕日を「美しい写真になる」と言った労働者階級、八十八パーセント。上流階級の学位持ちだと六割を切る。キャベツは逆走。無資格の層で「美しい」が四パーセント、学位持ちで二十二。どの層もだいたい半分は「無意味」って言うから、キャベツを美しいと言う奴はどこでも少数派、なんだけど学歴が上がるとその少数派が太る。太るんだよキャベツが。初聖体拝領は無資格層の五十一パーセントが美しいと言って、学位持ちで七。七て。五十一から七。墜落。で、一番上のアグレガシオン(教員資格の最難関試験に受かった連中)とグランゼコール(フランスのエリート養成校。大学の上にもう一段ある)で二十五に戻る。夕日も六割切ったあと一番上で六十五に戻る。戻る。戻るんだ。一回捨てた夕日を、頂上の連中だけが拾い直す。ここ、後で効く。覚えとけ。

ブルデューの読みはこう。学歴が上がるほど、夕日、初聖体、風景みたいな「みんなが美しいと思うもの」を、俗、ありきたり、ちょい甘、で退ける。退けて何拾うか。社会的に無意味とされる物。金属の枠。木の皮。とりわけキャベツ。醜く不快とされる物。交通事故。肉屋。蛇。場違いとされる物。妊婦。そこから「美しい写真が作れる」と言い出す。つまり美的態度ってのは物が美しいかどうかの話じゃなくて、写ってる物から写真を引き剥がせるかどうかの話。ベリッ。剥がせる奴が上。夕日は剥がれない。ベリ……剥がれない。剥がしても剥がしても下から夕日。糊が強すぎる。キャベツは剥がれる。ベリッ。誰も見たがらない物だから、剥がした下から出てくるのは見ている自分だけ。自分。また自分。毎回それ。
で、一番嫌なのここ。予備調査では本物の写真を見せた。本調査では題材の名前を言っただけ。結果、同じ。同じかよ。写真、一枚も見なくていい。「キャベツ」の四文字で判定出る。人は画像を見ていない。カテゴリーを見ている。ラベル読んで美を出力してる。じゃあさっき俺の親指は何を見て止まった? 夕日じゃない。「夕日」。二文字。画面に写る前、ハッシュタグの段階で、却下。親指が却下した。親指に却下権。あるんだよ却下権が。審査員いるんだよ俺の手の先に。任命、誰。俺。就任式の記憶もないのに俺。
俺の石像はキャベツだった
石像。戻ってこい。お前あれ何だったの。本は中間層の写真趣味にもページを割いていて、こうある。小ブルジョワの美意識は、労働者が好む題材、山、夕日、森、記念写真を拒んで、流木、塗った小石、籐、ラフィア、「芸術」工芸、芸術写真といった「シックな物の安い代用品」を喜ぶ。新しい小ブルジョワはさらに、伝統的なレパートリーの外にあるというだけで「オリジナル」に見える題材を選ぶ。ロープ。キャベツ。
ロープ。キャベツ。謎の石像。
並ぶ。並ぶ並ぶ並ぶ。きれいに並ぶ。やめろ。頼むから並ぶな。六十年前のフランスの統計の行列に、俺の石像がすっ……整列した。しやがった。三年迷って三万払った俺が最初にやったのが「夕日を撮らない」で、撮らないことで何かを示そうとして、示す相手はどこにもいなくて、示そうとした自分だけがブログに残って、その自分を自分で「ゴミ写真笑」で処理。笑、は照れだ。照れは本気で参加してないと出ない。参加してた。何に。知らん。知らんが参加してた。エントリーした覚えがないのにゼッケンついてる。番号まで振ってある。しかも走ってる。コースも知らないで順位だけ気にして走ってる俺。誰だお前。
ミニマリストの部屋写真。二〇一五年にこのブログで部屋の写真を募集したことがある。一番驚いたのがスーツケース一個の部屋で、驚いた、って当時の俺が書いてる。何もない部屋。床。壁。スーツケース。……あれキャベツだ。キャベツだよあれ。社会的に無意味とされる題材を「美しい」と言える人間にだけ美しい写真。だから俺たちはあれを撮って、載せて、「何もない」を題にした。何もない、はキャベツよりキャベツ。キャベツはまだ写ってるもん。こっちは写る物まで断った。物を減らしたんじゃない。題材を減らして、見てる自分だけ残した。最後の一個まで減らして、残った一個が自分。重っ。その一個がいちばん重い。
同じ年のオフ会で、物を持たない自慢って消費ゲームと変わらなくないか、って話になったと、これも自分で書いてる。変わらない。変わらないどころか同じ表の同じ列。行が違うだけ。夕日を撮る奴とキャベツを撮る奴、趣味の違う人間じゃなくて同じ試験の別の点数。さっきのおっさんは八十八パーセントの席に座って「おお」って言って帰った。おおで済む。済む奴は済む。済まない奴だけが夜中にこれ書いてる。
夕日をもう一度撮る奴
ここで戻る。初聖体の二十五。学位持ちで七まで落ちた「美しい」がなんで一番上で二十五に戻るか。本に書いてある。最高学歴の層のかなりの部分は、「何でも美的に見られる」と宣言することで自分の美的態度を主張するから。夕日も初聖体もキャベツも、全部撮れる。全部撮れるのは全部から引き剥がせるからで、引き剥がせる奴にとっては夕日もキャベツも等しくただの「題材」。で、題材に貴賤はない、と言える奴にだけ貴賤がない。
三種類いる。夕日を撮って「おお」って言う奴。夕日を撮らない奴。夕日をもう一度撮って「美しい」って言う奴。最初と最後、写真だけ見れば同じ。違うのは撮ってる人間がどこで目を覚えたかだけ。で、最初の奴は「きれい」と言う。労働者階級の美意識はカレンダーや絵葉書の美学と同じ物を「美しい」じゃなく「いい」「きれい」「かわいい」と呼ぶ、と本にある。おお、もここ。最後の奴は「美しい」と言う。同じ夕日に。同じ写真に。きれい、か、美しい、か。それだけで、どこで目を覚えたか全部ばれる。
俺は撮らない奴だ。撮らない奴は夕日が撮れない。撮った瞬間おっさんと見分けがつかなくなる、から? からって何だよ。見分けがつかなくなること、それだけを恐れて十二年、石像撮ってロープ撮って何もない床撮って、気づけば撮らない奴だけが損してる。考えろ。おっさんは夕日を持ってる。何でも撮れる頂上の連中も夕日を持ってる。撮らない奴だけ持ってない。断捨離した。夕日を。ミニマリストが。夕日を。クソが。橋のたもとから海に映る夕陽を見るたびに幸福で胸がつまる、っていう小説の一節を俺はメモに貼ってる。貼った。大事に貼った。貼ったのに撮れない。胸がつまる方は許可が下りてて、撮る方だけ却下。読む側なら夕日に感動していい。撮る側に回った瞬間、サイレン。ウーウー。誰が鳴らしてんだそれ。
美的態度の根っこは「自然に身を委ねることの拒否」で、自己制御から始まる、と本は書く。きれいなものをきれいと言いたがる身体を、まず止める。止められる奴が上、という仕組み。おい親指。聞いてるか。聞いてんのか親指。お前が止めてるの、美意識じゃない。止まれることを美意識と呼ぶ仕組みの中で、言われた通り止まってるだけ。番犬だ。飼い主の顔も知らない番犬が、支給された首輪つけて、夕日に吠えてる。ワン、じゃねえんだよ。餌の出所も知らないで。
親指
で、まだ構えてる。オレンジが薄くなってきた。カラス増えた。二羽。増えるな。数えるな俺も。おっさんはもういない。とっくに家だ。いいなあ。
撮る。押せ。押せ押せ押せ押——
カシャ。
撮った。撮ったぞ。
画面に夕日がある。きれいだ。きれい、って口が言った。美しい、じゃなく。おお、でもなく。きれい。カレンダーの言葉。ブルデューを三回記事にして、口はまだカレンダー側。当たり前だ。記事は口で書いてない。親指で書いてる。親指だけが賢くなった。本体置いて親指だけ進学した。
送るか。誰かに。送らない。送らない理由を探すと「夕日はちょっと」が出てくる。出た。はい出た。出ましたね。自分で実況すんな。じゃあ逆に「何でも撮れる奴」の顔で送るか。夕日もキャベツも等しく題材です、の顔。嫌だ。あれも試験。試験の満点。満点取りに行く気はない。俺が欲しいのは満点じゃなくて、おっさんの「おお」で、おおは買えない。三万でも。三年かけても。知ってしまった口からは出ない。無理に出しても、出たことを確認する係が中にいて、確認された時点でそれはもう、おお、じゃ、ない。
スマホを仕舞う。写真は残る。誰にも見せない夕日が一枚、スマホの中で、何もない床の写真の隣に並ぶ。変な棚。
石像は、まだクラウドにある。開く。十二年前のゴミ写真。謎の石像。見る。じっと見る。
面白い写真だ、と思った。
面白い。美しい、でも、きれい、でもなく、面白い。表のど真ん中の言葉。おお、ではない。十二年経って、親指だけ賢くなって、口は人並みで、俺はまだ、おお、が、言えない。





コメント 1件
夕日。美しい。撮りたくなる時はある。でも、不思議なもので、人間は、大事な場面こそ、記録でなく記憶に委ねる。そして、そこにいたあったコトは忘れないだろう。たとえ形あるものが過ぎ去っても。