
俺の耳は正しい。これは前提だ。十代から今日まで音楽に関して俺が間違えたことは一度もないと俺は思っているし思っているから飲み会で「音楽? 何でも聴くよ」と言う、言える、何でも聴けるのは耳が正しいからで正しい耳はジャンルを選ばない。以上。
で、三十秒後だ。幹事がスマホをスピーカーに繋いで一曲目が来て二曲目が来て三曲目のドンドンドンのドンの三つ目で俺の口の端がピクッと下がる。ピクッ。本人より先に顔が答えている。俺は下がった口の端を上げようとして上がらないので上がらないままジョッキで隠し、ジョッキの陰で口の端が俺に報告してくる。こいつは駄目です。
何の曲だっけ? 知らん。知らんのに嫌いだ。
隣の席のやつが「これいいよね」と言う。「いい、いいよ」と俺は言う。言った瞬間に胃が一段せり上がる。口は何でも聴く。胃は何でも聴かない。二階と一階で営業方針が違う。
またまたまたになるが。ピエール・ブルデュー。フランスの社会学者。俺のジョッキの陰で起きていることを1979年のパリで先に書いた男だ。趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪である。 他人の趣味に対する恐怖や、生理的な不寛容が引き起こす吐き気なのだ、と。吐き気。フランス語で趣味は goût で嫌悪は dégoût で否定の接頭辞が一個くっついただけだから言葉の時点でもう親戚で、俺の口の端は親戚の方が先に動いた。
「蓼食う虫も好き好き」。ラテン語だと De gustibus non est disputandum、趣味については争えない、と昔から言う。俺たちはこれを平和条約として使う。あなたはあなた俺は俺、争わない、オーケー、オーケー、ピース。ブルデューはこの条約を裏返す。争えないのは趣味が多様だからじゃなく全員が自分の趣味を自然だと思っているからで、自分のが自然なら違うものは不自然で、不自然は「違う」で済まずに「おかしい」になって、おかしいはもう「悪い」の隣に座っている。三手で道徳。だから趣味の話は、意見交換の席に座る前に体の方で判定が終わっている。
ハビトゥス、とブルデューは言う。育った環境が体に刷り込んだ性向。どの音がうるさくてどの音が心地いいかどの匂いが清潔でどの匂いが貧乏かどの話し方が上品でどの話し方が田舎か、考えて選んだ記憶がないやつ全部。選んだ記憶がないから自然に感じる。本当に自然なんじゃない。早すぎて覚えていないだけだ。生後ゼロ日から浴びていたら空気と区別がつかない。
だから反応も考える前に出る。気持ち悪い、寒気がする、無理。判断じゃない。リフレックス。膝を叩かれて足が跳ねる階層で起きている。俺の顔にはスカウターが付いていて相手の曲が流れた瞬間に数値が出て出た瞬間に口の端が下がる、スカウターは壊れない、壊れるのは相手との関係の方だ。
隣のやつが俺の顔を見る。「今、口の端下がったでしょ」「下がってない」「下がった」。ピクッ。二回目。一回目は反射だった。二回目は目撃されている。目撃された反射はもう反射じゃなく態度で、態度には責任が付く。俺は責任を取りたくないので「いや、この曲はいいよ、いいんだけど」と言い、「けど」の後に続く言葉を探して、探して、出てきたのは全部否定形だった。
ブルデューはここも書いている。趣味を正当化するとき人は否定形でしか語れない。なんでその服が好きなの、量産型が嫌だから。なんでその店、チェーン店の味が無理で。なんでその音楽、流行りのやつは軽いから。好きの理由を聞かれて嫌いの名前で答える。スピノザ由来の「すべての規定は否定である」を引いてきて、趣味の領域ではこれが特に強く効くと言う。
やってみろ。自分の「好き」の説明から否定形を全部抜く。〜じゃない、〜みたいなのは嫌、〜とは違って、全部抜く。俺はやった。ジョッキの陰で。残らなかった。残ったのは、えっと、なんか、いい。なんか、いい。それだけで何年も人の曲を飛ばしてきたのかと思うが、いや待て飛ばしてたのは俺じゃなくて俺の胃だ俺の胃が勝手に、胃、お前は黙ってろ、消化だけしてろ(胃さん、本日のところはお静かに願えますか)、なのに胃は黙らない、敬語も効かない、胃の方が俺より先に生まれているからだ。
美的な不寛容は恐ろしく暴力的になりうる、とブルデューは書く。生活様式への嫌悪は階級の間の最も強い壁の一つだ、とも。証拠に挙げるのが結婚は同じ階級の中で起きやすいという事実で、恋愛で「価値観が合わなかった」と言うとき本当に合わなかったのは意見じゃなく食べ方と話し方と部屋の趣味だ。意見は話せば直る。食べ方は話しても直らない。話している最中にまた食べ方が見えてピクッ。
単品無罪、混合有罪
そこへ刺身が来る。幹事が奮発した方の刺身だ。隣のやつが卓上のマヨネーズを取る。取って、かける。かけた。
俺の胃が立ち上がる。
ここがこの本でいちばん怖いところで、正統な文化を持っていると自認している人間が最も耐えられないのは劣ったものそれ自体じゃない、見下せば済むからだ、耐えられないのはブルデューの言葉で「趣味が分けるべきと命じたものを、冒涜的に結びつけること」、混ぜるやつだ。マヨネーズは許せる。刺身も許せる。マヨネーズをかけた刺身が許せない。単品無罪、混合有罪。組み合わせは一個の物への攻撃じゃなく分類の仕組みそのものへの攻撃で、ブルデューがわざわざ「冒涜」という教会の言葉を持ち出すのはそのためで、この瞬間だけ俺の胃は異端審問官になる、火刑台はない、代わりに口の端が下がる。ピクッ。三回目。三回目は俺が自分で認めた。
「何?」と隣のやつが言う。「何も」と俺は言う。何もじゃない。俺はいま、こいつには見えていない線の上に立って旗を上げている。線が見えていない人間には越えた自覚がないから謝らないしこっちが怒っている理由も分からない、だから説明しようとして説明の途中で自分が線審をやっていることに気づいて、気づいたのに旗を下ろせない。旗を下ろしたら試合がなくなる。試合がなくなったら、俺が何者かも、なくなる。
で、線審をやると分かるが、はるか場外へ飛んだボールに旗は要らない。誰が見てもアウトだ。旗が震えるのはラインの上に落ちたボールで、嫌悪がいちばんはっきり向く相手は遠い世界の人じゃなく、社会的に自分の隣にいて自分より少し気取って見える人だ。フレンドリーファイア。調査は1960年代のフランス、回答者は千二百人ほど。そこで知識人がわざわざ警戒していたのは労働者が好む歌手じゃなく、小学校の先生たちが好む「知的な」シャンソン歌手だった。遠い相手の趣味は遠すぎて拒否するまでもない。隣の相手の趣味は自分と間違えられる可能性があるからきっぱり拒否しなければならない。
隣のやつは、だから、隣に座っている。同じ会社で同じくらいの給料で同じような服で、同じ曲を「いいよね」と言う。にわかは敵じゃない。にわかは外から見たら俺と同じ顔をしている。だから俺はにわかに一番きつく当たる。距離が近いほど線を太く引く。白と、ちょっと違う白を、全力で分ける。全力で。白を。
四曲目
じゃあ趣味はすべて嫌悪なのか、好きという経験は幻想なのか、と自分に聞く。違う。ブルデュー本人がそこまで言っていない。愛好家は心から愛している、と別の箇所でちゃんと書いている。嫌悪が趣味の仕組みだとして、好きという体験は本物だ。仕組みと体験は別の階にある。一階で胃が吐きそうになっていて二階で俺が心から感動している。同じ建物。
もう一つ。この理論は何を好きでも何を嫌いでも「嫌悪による区別」で説明できてしまう。好きなら区別、嫌いなら区別、全部好きなら「全部好き」という区別。当たりすぎる。当たりすぎる理論は強いのか、反証できないだけなのか。昔から言われている批判で、俺はまだ答えを持っていない。持っていないまま三曲目のサビが来る。
俺は「あー、これね」と言ってスマホに手を伸ばす。幹事のスマホだ。飛ばす。飛ばした。ソーリー、ネクスト。ブルデューを読んだからといって口の端は戻らない。ハビトゥスは読書一冊で書き換わるほど薄くない。ただ、飛ばした手を見ながら「今、俺の育ちが動いたな」と一回だけ思える。思えるだけだ。
四曲目はいい曲だった。理由は言えない。なんか、いい。隣のやつが「これもいいよね」と言い、俺は「うん」と言い、今度は口の端が動かない。動いていないことを俺は確認している。確認している時点で、もう線審だ。
俺の頭はブルデューを読んだ。俺の胃はまだ読んでいない。






コメント 2件
ブログ復活してるーーー!!!
(元bingoより)
お久しぶりです!なつかしい笑