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物を持たないミニマリスト

少なく持って、深く見る。

白い画布の前で口元を押さえる男と「美術館で「わからない」と言えるのは、わかってる奴だけだ」の文字

美術館で「わからない」と言えるのは、わかってる奴だけだ

美術館で白い絵を前に、『わからない』と言い出せない男性を描いた3コマ漫画

白い。縦二メートル横三メートルの画布がほぼ白で、左下に鉛筆みたいな線が一本、途中で折れている。以上。

俺はこれを三十秒見ている。三十秒というのは俺が決めた数字じゃなく連れが決めた数字で、連れが三十秒見るから俺も三十秒見る、先に動いたら負けだからだ。何に負けるのかは知らない。知らないが負ける。

「いいね」と連れが言う。「うん」と俺は言う。「うん」の後ろに四文字が控えている。わ、か、ら、な、い。喉まで来ている。喉で止まる。喉から上に関所があって、関所の役人が「通行証は」と言い、俺は持っていない。

ピエール・ブルデュー、『ディスタンクシオン』。この前も引いた本で、あのときは居酒屋の胃の話だったが、この本の冒頭で彼はもっと乱暴なことを言っている。芸術作品は、それが書かれている暗号を持っている人間にしか意味を持たない。 暗号を持たない者は音と色と線の混沌の中で途方に暮れる、と。カオス。筋も理由もなく、ただの線。つまり俺の目にはいま、見えているものが正確に見えている。白い布と折れた線。報告としては百点だ。「わからない」は誤答じゃなく、観測結果だ。

じゃあ言えよ。観測結果なんだから言えよ。言えない。

なぜか。ブルデューはこれにも答えていて、答えが嫌な答えだ。調査をすれば、美術館に行く回数も絵の好みも、学歴と育った家とでほぼ決まる。目は生まれつきじゃなく、教育によって再生産される歴史の産物だ。なのに世間は目を才能だと思っている。生まれつきの感受性、センス、天性。この「生まれつき説」が効くのは、本当は「どこで覚えたか」の差でしかないものを「どういう人間か」の差に変換してしまうからで、ブルデューはこれを新しい無原罪の御宿りと呼ぶ。センスは学ばずに宿る。宿っていない奴には、宿っていない。

ここだ。「わからない」が、暗号の未習得の申告じゃなく、人間の種類の申告になる。オルテガ・イ・ガセットという哲学者が正直すぎる言い方をしていて、ブルデューがわざわざ引いている。新しい芸術は観客を二つのカーストに分ける。理解する者と、しない者。ある者は理解の器官を持ち、ある者はそれを拒まれている。器官。臓器の話になっている。俺は白い画布の前で、自分に臓器が一個足りないと申告しろと言われている。言えるか。言えない。言えないので「うん」と言う。

「わからない」が言えるのは誰か

面白いのはここからで、ブルデューの調査で現代絵画を見せられた労働者は普通に言った。「何を意味しているのか分からない」「好きだけど分からない」。白状する。一方で同じ絵に同じくらい困惑していたブルジョワは黙った。知ったふうな沈黙。彼らは絵の意味が分かったわけじゃない。「意味を求めてはいけない」ということだけを知っていた。「これ何の絵?」と聞く素朴さこそが正体を割るので、聞かない。それだけ。

つまり差は理解にない。理解していないことを、どの顔でやるかにある。

で、その二つの間に挟まっている人種がいて、ブルデューはその人種を一番念入りに書いている。小ブルジョワ。文化を真面目にやりすぎる人たち。彼らは文化をゲームとして遊べない。本気すぎてはったりが打てないし、本当の常連がやる気軽さも出せない。本気すぎて、知らないことがばれる恐怖から一秒も自由になれない。そして一番刺さる一文。彼らは、競技に出ていない人間の無関心でも、自分の欠落を白状する権利どころか見せびらかす権利すらあると感じている人間の落ち着きでも、試験を迂回することができない。

英語で考えると早い。外国人に道を聞かれて、英語をまったくやっていない奴は「ノー・イングリッシュ」と笑って手を振る。ノーゲーム、減点なし。ペラペラの奴は「ごめん、今なんて?」と三回聞き返す。聞き返すたびに感じがよくなる。資格があるから、聞き返しが欠落に見えない。で、TOEIC七百点の奴だけが聞き返せない。聞き返した瞬間に七百点が疑われるので、聞こえたふりで頷いて、相手が笑ったところで半拍遅れて笑う。三人の中で英語が一番怖いのは一番勉強した奴で、怖い理由は、一番勉強したからだ。ブルデューの小ブルジョワはこの七百点の奴で、美術館は、外国人に道を聞かれ続ける街だ。

英語を断れる人、気軽に聞き返せる人、聞き返せず頷くTOEIC七百点の主人公を対比した3コマ漫画

読んだとき椅子から少しずれた。俺は七百点だ。「わからない」と笑って言えるのは、競技に出ていない奴と、言っても資格を疑われない奴。前者が労働者で後者が貴族で、俺はどっちでもない。俺は競技に出ていて、資格を疑われる側だ。出場している以上、棄権は失格と同じ。

連れを見る。連れはもう次の絵の前にいる。「これ何なん?」と、連れが言う。キャプションを見もしないで。俺は連れを一瞬だけ憎む。言えるからだ。「これ何なん」が言えるのは暗号を持っているからじゃない。競技に出ていないからだ。ノーエントリー。連れは負けない。参加していないから。

ブルデューは隠し方のカタログまで用意している。欠落は軽蔑に変えられる。「あれはちょっとね」。混乱は上の空に変えられる。「ああ、見た見た」。ベルナール・ビュッフェとジャン・デュビュッフェを混同していても、唇を少しすぼめて頷いて、霊感を受けた顔をしていれば済む。ナレッジ・ゼロ、ポーズ・ワン。それで会話が成立するのがブルジョワの客間で、逆に純粋な知識テストなら小さな経営者や田舎の医者に勝てる小学校の先生が、その客間に入った途端に何も言えなくなる。はったりは知識の代わりになる。知識は、はったりの代わりにならない。

美術館という建物の話もしておく。ブルデューはこれを奉献された建物、と書く。教会に使う言葉だ。入場は誰でも、いつでも、服装も自由。ただし括弧書きで「必要な文化資本を持っていれば」。無料開放の寛大さはそこで一回裏返る。鍵をかけていない家に入れるのは、鍵の場所を知らなくても入れる人だけだ。中は図書館に似ていて、静かで、禁欲的で、知っていることを一つずつ確認していく勉強部屋に近い。一九六〇年代の調査でリールの美術館を出てきた三十九歳のエンジニアがこう言っている。静けさの印象が残った、空っぽでもあった、単調で、絵、絵、絵、消化不良になる、自分に課した修行みたいなものだった、早く回ったのは「あの美術館は済ませた」と自分に言いたかったからだ、絵と絵の間に何か別のものを置いてくれたらいいのに。

正直すぎる。そして俺だ。俺も白い画布を「済ませ」たくて三十秒見た。メトロポリタン美術館の学芸員は自分の美術館を「目の筋肉を鍛えるジム」と呼んだそうで、ジムなら俺が三十秒でバテるのも道理で、ジムで「このマシン、使い方わからない」と言うのは誰も恥ずかしくないのに、美術館で同じことを言うのは恥ずかしい。マシンの使い方は覚えるものだと全員が知っている。目の使い方は生まれつきだと、全員が思わされている。

ついでに解説パネルの話。美術館はもっと説明を付けるべきか、と訊かれて、支配階級、とくに教師と美術の専門家は賛成した。賛成しながら、他人にとって望ましいことと自分にとって望ましいことを分けた。この美術館は今のままだから自分たちだけの特権なのであり、自分たちだけが楽しめる austere で ascetic で noble な美術館を、寛大に、他人に開いてやる。寛大に。パネルは入口を広げるために付くんじゃなく、入口を広げてやる側に立つために付く。俺がさっき読もうとしたパネルは、そういう人がそういう顔で付けたものだった。

十三年前の俺

自分の古い記事を読み返した。二〇一三年十一月。ニューヨーク・シティ・バレエを観に行って、さっぱり分からないどころか予想できない奇妙な動きがどうも面白く感じてしまい笑いを堪えるのに必死だった、と書いてある。講演後のパーティーで、バレエについて語られたらどうしようとビクビクしてました、とも。

全部ブルデューの表に載っている。笑いを堪える、は労働者の正直さにブルジョワの沈黙で蓋をした格好で、ビクビク、は小ブルジョワの恒久的恐怖そのもので、あの記事の結論は「文化資本を育てよう」だった。育てた。十三年で、少しは。本も読んだ。で、白い画布の前で、喉に関所がある。育てた分だけ関所が厳しくなっている。知らなかった頃は笑えた。知った分だけ、笑えない。学べば学ぶほど「わからない」が高くつく。これもブルデューの書いた通りで、後から学んだ文化は学んだ痕跡が消えないからいつまでも「勉強した人」の文化で、勉強した人はいつまでも試験会場にいる。生まれつきの人は、試験会場の場所を知らない。

連れが戻ってくる。「で、これ何なん」。白い画布を指している。俺は息を吸う。

「わからん」

出た。四文字が関所を通った。通ったというより関所の役人が昼飯に出ていた。連れは「だよな」と言って次へ行く。だよな、で済んだ。済んだのに俺はまだ白い画布の前にいて、言えたことを確認していて、確認している時点で、まだ競技に出ている。

俺は残って、やっとキャプションを読む。作家名と制作年と、題。

無題。

向こうも言わない。

この本を読む

  1. ディスタンクシオン〈普及版〉I〔社会的判断力批判〕Amazonで見る
  2. ディスタンクシオン〈普及版〉II〔社会的判断力批判〕Amazonで見る

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