岡本太郎の自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)を借りました。

この本を借りるまで、変なオッサンとしか認識してなかったんですが、読んだら「すげえ」と思うほどになりました。

しかも、ミニマリスト的な考えも持っており、共感することも多々あります。

岡本太郎さんの熱い言葉で、みなさんのミニマリスト心に火をつけれるよう紹介したいと思います。

 

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。

僕は逆に、積み減らすべきだと思う。

財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。

過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。

それには心身とも無一物、無条件でなければならない。

捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。

 

あの福本伸行先生の漫画に出てくるアカギも同じようなことを言ってます。

 

「おれは「成功」(それ)を少し積んだらすぐ崩すことにしてきた。意図的に平らに戻すようにしてきた」

実は成功はなかなか曲者でよ、一筋縄じゃいかない代物。最初の一つ二つはまぁいいんだが、10・20となると、もう余計

「余分だ…! 体を重くする贅肉のようなもの…。それを…おまえはいいやいいやで無用心に積みすぎだ」

「動けねえだろ…? お前今…動けねえだろ…?」

「(成功を)積み上げていくとある段階でスッ…とその性質が変わる。成功は生の「輝き」ではなく枷になる。いつの間にか成功そのものが……人間を支配………のっとりにくるんだ…!」

『成功』が成功し続ける人生を要求してくる…! 本当は……あえてここは失敗する…。 あるいは、ゆっくりする…。 そんな選択だって人にはあるはずなのに…積み上げた成功がそれを許さない…!

「つまり…成功者…大物らしく振舞うことを要求してくる………! となりゃぁ…当然いちいちメソメソなんかしていられない。悲しいときも泣けず…おかしくても笑えず…怒りがこみ上げてきてもやすやすと爆発なんかできやしねぇ……」

「我慢をしているはずだ…相当…! そんなストレスの塊みたいな日々をお前は営々とこなしている。スケジュールどおり…! 何だそれ…? まるでわからねぇ…! ありのままの自分がどこにもねぇじゃねぇか…。 金や家来をいくら持ってようと…そんなもん俺は毛ほども羨ましくねぇ…。みすぼらしい人生だ…!」

生きてるといえるのか…? お前…それで…!」

 

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物質的な繁栄とか、「幸福」などというもので人間がみたされるはずはないのだ。

人間が生まれてきて、一番痛切につかみとらなければならない”生命感”というものが、そのために逆に遠ざかり、見失われてしまう。

 

合理的で、目的化された思考では、”生命感”を得れない。非合理で無目的、無償なものにこそ”生命感”がある。

小賢しい損得勘定で熱い生命感は得れないようです。ましてや、物で生命感を得ようなんて謎すぎます。

 

 

ぼくは、昔から三日坊主でかまわない、その瞬間にすべてを賭けろ、という主義なんだ。

生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。

計画性なんてものにこだわらず平気で捨ててみて、つまらなかったらやめればいい。

 

つまり、瞬間瞬間、現在を全力で生きること。ももクロのように

何かやってみたいこと、興味あることはとりあえず今すぐにやろう!計画なんて捨てて!

 

 

終わりに

物は増えすぎると、人の行動を制限する枷となるということ。物の束縛から解放された人は、”生命感”、つまり熱を求める。

正にミニマリスト向けの言葉だと思います。

みなさんのモチベーションを高められたら幸いです。

 

この本でしか岡本太郎さんのことは知りませんが。

現代社会への反抗心から、こういった思想になっているのが唯一の残念な点でした。

現代社会の合理的なものにも素晴らしいのはあります。

ただ熱が伝わる熱い本なのでオススメです。

 

 

 

 

生命(いのち) 燃やしつくすため
一緒にいまを生きていく

灰とダイヤモンド

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  • 最近のコメント

  • 2 コメント

    1. 最近、経済学者で東大で東洋文化を研究されてる、
      安富歩さんの著作を読んでいます。

      彼は、人が自由に幸福に生きるためには、自分の感覚に従って、
      伸び伸びと成長していくことが必要であると言うんですね。
      そのためには、自己愛(ナルシズム)ではなく、自愛が必要だと。
      彼がいう自愛とは、自己の感じていることを否定しない、
      さらに言い換えると、自己嫌悪という感覚を抱いていない状態であると。

      しかし、人の社会というのは、そうした人の生まれながらの状態である、
      「自愛」というのを歪ませるらしい。
      どうやるかというと、親や社会が子供の感じていること(往々にして正しい)を、
      そのような事実は存在していないかのように振る舞うことで否定する。
      そうすると、子供は自分が感じていることは「いけないこと」だと思う。
      これが、「自己嫌悪」のスタートであり、私が面白いと思うのは、
      その自己嫌悪の埋め合わせをするために、
      人は「他者から評価されるものを身につけ始める」という指摘なんです。

      つまり、元来人は自分の感覚に従って何かしらの衝動や欲求を抱き、
      そのために必要なものを手に入れてるために、
      エネルギーを内から生み出せるはずなのに、その感覚がわからない、
      どころかふとそれを感じそうになると、自己嫌悪に苛まれるので無視すると。

      デフォルトが虚無的か、自己嫌悪の人間になってしまっているので、
      その状態から逃げるために、他者から評価されるもの、
      つまりそれは社会的地位とか能力とかいう無形のものから、
      それを象徴的に誇示するための「モノ」の所有に奔走するし、
      強い刺激を与えて誤魔化してくれる様々な「消費」に依存する。
      まさしく、「所有」と「消費」に生きる現代人が完成するわけです。

      と、この論理展開を見ると、「蓄積」「所有」の正体というのが、
      すごくクリアになる気がします。
      つまり、ここから救われるためには、
      それらの「外部のものへの逃避(自己疎外)」をやめて、
      自己の感覚を回復し、元来内から自給自足できるはずの、
      生きるエネルギーを回復する必要があるという話になるわけです。

      となると、まずは「逃げる」ことをやめ、鎧を脱ぎさる必要があるんじゃないか。
      つまり、「捨てる」必要がある(!)んじゃないかと。

      ミニマリスト的な方向性に生き残る方法を見出す人っていうのは、
      多分この理屈に意識的無意識的にせよ気づいている人なんだと私は思います。

      しかし、安富さんは、この理屈に気づいて、
      感覚を回復しようと自助努力することで救われることは難しいよ、と言います。
      なぜなら、感覚というのは、自力で見つけられる類のものではなく、
      ふとした瞬間、感じることができるものでしかないから。
      感じる能力というのは、安富さん曰く、感じたいと「祈る」しかないらしい。
      そこで、安富さんは「親鸞」とか「スピノザ」の話をし始めます。

      両者に共通するのは、自他を分離する西洋的な認識論ではなく、
      「自己」を「世界(→神、仏)」の一部として溶けこませるようなイメージです。

      つまり、世界と相対し、「知」による努力で活路を見出すようなことはダメで、
      それは「世界」たるこの自分の肉体が知っているのだというような考え方ですね。

      だから、こうなってくると最早「説得」は無意味で、
      救いは個々人が感じるしかない。
      誰かに教えてもらうことは不可能である。

      現代社会で推奨される生きる力というのは、理性による自助努力で、
      自身の設定した目標を次々実現してことで、こういう人は成功者と呼ばれる。
      でも、そういう不断の自己コントロールを捨て去り、
      自己の内から湧き出ずるエネルギーに身を任せるところにこそ、
      救いがあると考えているわけですね。
      それを感じられなければ、人は「自由」ではないと。

      今回の記事を読んでも思いましたが、
      ああ、ミニマリストの目指しているところってここなんだなぁと、
      個人的にはしっくりくる思いです。

      1+
    2. めちゃくちゃ面白い話でした。
      経済学者なのに、色んな本を出されている方なんですね。
      hajiさんの文章がわかりやすいのもあって、かなり『しっくり』きました。

      >その自己嫌悪の埋め合わせをするために、
      人は「他者から評価されるものを身につけ始める」という指摘なんです。

      これホントそうですよね。
      現代の消費って、コンプレックスを埋めるものが多いのも、こういった説明で説明できます。
      プライドが高くても、自尊心がない人は外部に頼りますよね。
      物に限らず、所属する団体、こういった知り合いがいるとか。

      >自己の感覚を回復し、元来内から自給自足できるはずの、
      生きるエネルギーを回復する必要があるという話になるわけです。

      言葉のレベルでは解決しない問題ですよね。
      仏教や、禅などの修行、つまり『体験系』でしか解決しない問題だと思います。
      言葉が好きな人が、身体の人に惹かれるのも、こういったのがあるのかなあと最近感じています。
      そういや最近の芸術やエンターテイメントは『体験系』が多いですよね。

      また、ももクロの話になりますが、彼女らは家庭や周りからの愛情をたっぷり注がれて育った子たちで、「自己嫌悪」があんまない上に、「感覚」の世界に生きている身体の人です。
      だからこそ、言葉で行き詰まった状態だと、こんなにも惹かれるのかなと。

      ミニマリストになることによって「外部のものへの逃避(自己疎外)」への依存をなくし、それから自己の感覚を回復し、元来内から自給自足できるはずの、
      生きるエネルギーを回復することで、自愛の状態になる。

      言葉のレベルでは、「外部のものへの逃避(自己疎外)」への依存をなくすことまでしかできません。
      生きるエネルギーを回復するにあたって、このブログで僕ができることは、熱を発していくことなのかなと思いました。

      0

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